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「石岡君、舞台役者になる」4 優木麥 |
| 「もう行くのですか。セリヌンティウス様」 戸口に向かっていた私は、冬島のセリフで振り返った。灰色のかつらをつけ、腰を曲げている冬島は、メロスの母親役である。妹の結婚式のシーンが終わり、再び王宮への出立のシーンだ。ここまでデコボコとしか言いようがない出来だった。なにしろ私がマトモに言えたセリフのほうが少ないのだから、推して知るべしである。その失態の数々を夏美と冬島、そして春木が超人的な努力によってカバーしてきてくれた。彼らがいなければ、今日の舞台は、幕を開けて稽古を見せている事態になっただろう。 「はい。お世話になりました。メロスにいい結婚式だったとお伝えします」 私は下手の袖でセリフを書いた模造紙を掲げてくれているスタッフに感謝する。 「お名残惜しいですなあ」 「いいえ……えっ…」 私は冬島の後ろで準備を始めた黒子たちの運んできたモノを見て目を丸くする。それはルームランナーだった。 「あまりお引止めするわけには参りませぬ。さあ、セリヌンティウス様。お駆けなされ」 冬島がルームランナーを促す。私は一歩二歩と逆に遠ざかってしまった。とてつもなく不吉な予感がしたからだ。 「さあさあ、セリヌンティウス様。お急ぎなされ」 冬島は私の手を引いてルームランナーまで引っ張ってきた。自分の顔が青ざめていくのがわかる。 「石岡先生、これに乗って走ってください」 冬島にささやかれる。私は「初めて聞きました」と小声で返す。「走るシーンのリアリティを出すために仕方ないんです。お願いします」と冬島が言った。仕方がない。もう引き返せないところまで来てしまったのだろう。私は観念して、ルームランナーのベルトに乗った。 「行きますよ」 冬島が時速10キロに設定してスイッチを入れる。ベルトが動き出し、私はあやうく転ぶところだった。かなり早い速度である。これでは、すぐに息が切れそうだ。 「先生、手すりにつかまるのはおかしいです」 冬島の指摘に私は両手を離す。さらに負荷が辛くなった。必死で両手を前後に振る。どれぐらい走ればいいのだろう。いつのまにか傍らにいた冬島が消えている。メロスの母親がいつまでも出ているのはおかしいので、当然である。舞台の上は、ルームランナーと私だけになっている。異様な構図である。私は「はあはあ」と息を切らせながら走りつづけた。照明の明度が落ち、ナレーションが流れてきた。 「メロ……セリヌンティウスは走りつづけた。友の命を救うために、ひたすら走りつづけた。山道を進む彼に強風が吹き付けてくる」 黒子が運んできた大型の扇風機から私に向けて横向きの強風が叩きつけられた。 「ひーひー、ちょっとやめてください」 横からの突風が私をなぎ倒そうとする。情けない私の悲鳴に、観客席から失笑が聞こえてきた。だが、私は必死なのである。ただ走るだけでも息も絶え絶えなのに、こんな障害があっては、とても走りつづけられるわけもない。気を抜けばベルトに流されてしまう。ペースを落としてもらわなければ倒れそうな気分なのだ。 「やいやい、おまえ。待ちやがれ」 気が遠くなりそうな私の耳に冬島の声が響く。朦朧とした頭で声の方角を見ると、山賊に扮した冬島が山刀を構えて立っている。 「ああ、いいところへ。止めてください」 冬島の顔を見た私は、声を弾ませた。冬島が顔をしかめる。 「何を言ってやがる。オレ様はこの辺りを仕切る山賊だぞ」 付け髭を振るわせて冬島が怒鳴った。しかし、私にとっては、ストーリー進行は二の次である。この酸欠と筋肉痛地獄から脱出させて欲しい。 「とにかく、これを……止めて…」 私は目も空ろである。冬島がスイッチを止めてくれた。 「はあ、ありがとう」 ようやく疾走の無間地獄から解放された私は、冬島の腕の中に倒れこむ。意表を突かれたのか冬島は私を支えきれずによろめいてしまった。 「ああ、ああすみません…」 「いえ、大丈夫ですか」 山賊の役回りを忘れてしまった冬島の言葉に観客席からまたもや笑いが漏れる。慌てて冬島はコワモテの顔を取り繕うとした。 「ええい、調子が狂うわ。いいから、持ち物全部置いて行け」 「持ち物なんて、何もないですよ」 私は舞台に倒れ込んだまま、言葉を返す。セリフが違ったため、冬島は困った顔をしている。 「好きなようにしてください。もう……走りたくない」 私の本音だった。普段から体を動かしていないため、急に全力疾走をさせられては、とても体力がもつものではない。 「アホらしい。王宮に行かぬのなら、それでよいわ」 即興の捨てセリフを残して、冬島が去っていった。腹立たしげなその足音を耳にしても、私は動けなかった。一度寝転んでしまうと、もう立ち上がることは出来ない。私は精一杯の努力をした。それは間違いない。いくら気力を振り絞っても、体が動いてくれないのだ。こんなことをしても意味はない。やはりメロス役の秋山は戻ってこないだろう。やめたくてやめるのではない。太宰のメロスのセリフを借りれば、まさに「やんぬるかな」である。全てを投げ出したくなって、私は目を閉じていた。すると、私を呼ぶ声がした。遠くなりそうな意識を戻してみると、声援が観客席から飛んでいたのだ。 「セリヌンティウス、セリヌンティウス。頑張ってー」 空耳ではなかった。観客達が舞台上に倒れてセリフも口にしなくなった〃セリヌンティウス〃に対してエールを送ってくれている。小さな子供の声も混じっていた。若い女性達が声を揃えて「立ってー」と叫んでいる。開演前の春木座長の言葉を思い出す。 「石岡先生。舞台の上で演じられているのは、確かにお芝居です。でも、そこから必ず何がしかのナマが観客席に伝わるものなんです。そう信じるからオレたちは舞台に上がりつづけるんですよ」 胸の中で何かが弾けた。私は立ち上がらなければならない。そして、走りつづけなければならない。 「うわぁーー!」 喉の奥から血が噴き出るかと思った。ルームランナーの手すりを支えにして立ち上がる。 観客席から拍手が押し寄せてきた。全身は鉛のように重いが、拍手を聞いたら不思議とまだ動ける。私は自ら起動スイッチを押した。ベルトが動き出し、私は再び走り出した。いや、走っているのかどうか自分ではわからない。とにかく足は動いている。両手はダランと下がったまま、前後に揺れているだけだ。口を大きく開けた私は「アーアー」と意味不明の声を発している。疾走というよりも倒れるまでは、やめないだけの状態だ。 「セリヌンティウス様、もうおやめください」 男装した夏美が私の側に走りよってきた。 「君は…?」 「おいたわしや。もはやセリヌンティウス様の弟子のフイロストラトスの顔もおわかりにならない」 夏美はセリフを言った後、私の耳に口を近づける。 「石岡先生、もう結構です。アッキーは戻ってこないでしょう」 「関係ないよ」 「えっ…」 「秋山君のためじゃない。この劇団のためでもない。ぼくは……とにかく力の限り走らなければいけない気がするんだ」 「先生……」 夏美が心配そうに私を見つめる。そのとき、王宮の兵士の格好をした冬島が舞台に出てきて叫ぶ。 「おおー、セリヌンティウスが帰ってきたぞー」 その叫びに応じて夏美が私をルームランナーから下ろした。 「さあ、先生。お行きなさい。待ち人が来ましたよ」 私は足が震えて立つのがやっとである。その目の前に、メロスの扮装をした秋山が立っていた。 「セリヌンティウス。よく戻ってきてくれたな」 彼の顔を見た私の目からどっと涙が溢れてきた。胸の奥底から感情がたぎり、揺さぶられている気分だ。しかし、私は秋山に言わなければならない。 「ダメです。秋山君、ぼくの頬を叩いてください。ぼくは一度、君を疑った。もう戻ってこないだろうと疑った。だから、叩かれなければならない」 その言葉に秋山は首を横に振る。 「私には叩く資格はありません。なぜなら、私も戻るのを辞めようと考えたから。一度だけ考えましたから…」 どちらからともなく私と秋山は抱き合った。そして、声をあげて泣いた。ただひたすらに泣けて仕方がなかった。ディオニス王役の春木が私たちの側に立つ。 「何をデタラメをやってるんだ。メロスとセリヌンティウスの感動の場面をメチャクチャに……しやがって……」 春木も泣いている。ガバッと私たちの肩を抱いて、泣き出した。 「こんな公演は初めてだ。涙が止まらねえよ、ちくしょう」 夏美と冬島が駆け寄ってくる。私たち五人は舞台の中央に集まって泣いていた。観客席のあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。 ● その日の私はまだ走らなければならなかった。なにしろ、里美の友人の結婚式でスピーチをする約束をしているのだ。鳴り止まぬ拍手とカーテンコールを後にして、私は式場であるTホテルに向かった。もはや着替えているヒマはない。舞台衣装そのままに白く大きな布を袈裟がけにまとって、腰に古代ギリシャ風の短パン、足は皮製のサンダルである。通り過ぎる人々は私の異装にギョッとした表情をするが、今は緊急事態だ。私はTホテルに駆け込むと、そのまま里美に聞いていた5階をめざす。途中で、ベルボーイなどから「お客様」と声がした気がするが、構っていられない。披露宴会場に到着すると、もうすぐ宴が終了する寸前だった。 「その結婚式、待ってくれー」 私は息を切らせて会場に辿り着く。自分でもあの状態でよくこれだけ走れたと感心するほどだ。なんとか間に合ったと思いたい。 「石岡先生、どうしたのー」 ベージュ色のドレス姿の里美が目を丸くしている。 「約束だからね。スピーチをしに…きたよ」 「あ、うん……」 里美が司会者の下に駆け寄って事情を説明する。私は、その間にスピーチのメモを探す。そこで大変なことに気づく。私はセリヌンティウスの衣装そのままで来たので、スピーチのメモなどあるはずがない。 「皆様、なんと嬉しいご報告です。あのミステリー作家の石岡和己先生が、スピーチをしてくださるのです。拍手でお迎えしてください」 古代ギリシャ風の衣装に浴びせられる珍妙な視線の中を壇上に向かった。早くも私は後悔している。メモがなければスピーチなど不可能だ。奇跡を求めて、体のあちこちを探っていると、一枚のメモが見つかった。助かった。知らないうちに移していたのだろう。私は早速読み上げる。 「私の家にも宝といっては妹と、羊だけだ」 出席者達の顔が一様に怪訝そうになる。 「そして、もうひとつ……メロスの弟になったことを誇りに思ってくれ」 スピーチし終わって気づいた。これは、春木から渡されていたセリフのカンニングペーパーである。里美を含めて披露宴の客達は誰一人、私のスピーチの意味がつかめないまま、拍手を続けていた。 |
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