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「石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす」4 優木麥 |
| 深夜を過ぎた歌舞伎町は、酔客の巣窟と考えていた。しかし、実際にその時間に身を置いてみると、事実は違う。酩酊して足元がおぼつかない者は見かけない。テレビのドキュメンタリーのイメージだが、もっと騒然とした雰囲気を思い描いていた。やはり街は変わりつつあるようだ。石倉やアマミに聞いてみよう。 区役所通りから、靖国通りに出る。人気のディスカウントショップが建ち、一層若者の町らしくなった。私がめざすコンビニはその並びだ。店内に入り、グルリと一周回るがATMが見当たらない。仕方なく、店員に尋ねようとするが、レジの前には5人以上が列を作っていた。こういう場合、気の弱い私としては、行列を無視して店員に声をかける真似はできない。せめて何か購入しながら質問をしようとスポーツ飲料を一本手にしてから、列の最後尾の外国人女性の後ろに並んだ。 「はーい」 私が並ぶのと同時に、他の東南アジア系の女性が、私の前に立つ。行列に割り込みされた形になった。 「ハーイ」 そのアジア人女性は私に微笑みかけてくる。かすかにアルコールの匂いが漂う。毛皮のコートが高そうだ。 「は、はい」 こちらもぎこちない笑みを返しながら、挨拶した。女性はアイスキャンデーを手にしたまま、私に言葉をかける。 「マイペンライ」 「えっ……」 言うまでもないが、私は外国語はからっきしダメだ。苦手の域を通り越して、拒否したいのが本音である。しかし、こちらに善意で向けられている言葉を無視するのは、一人の人間としてマナーに反する。ささやかでも国際親善の一助ともなろう。 「あ、あの……」 そんな高尚なことを頭で考えていても、口から出るのは戸惑いの言葉だ。 「マイペンライ」 女性はくり返した。一体、何語なのだろうか。 「マイペンライ」 笑顔のまま女性が同じことを言う。ようやく私の耳に言葉が聞き取れた。しかし、意味はわからない。彼女は「マイペンライト」と言っているのだろうか。いま手にしたアイスキャンデーが「私のペンライト」だとしたら、全く意図がつかめない。 「ああ、あ……」 肯定していいのか、訂正すべきかわからない。いや、本人が「私のペンライト」と自己申告していることを、それはペンライトではないと指摘することに意味があるのだろうか。もしかしたら,比喩で言っている可能性もある。ツラくて自分の歩む道がわからない精神状態のとき、一本のアイスキャンデーが自分の進む足元を照らしてくれる。 彼女は、そんなニュアンスを込めているかもしれない。いずれにせよ、私はあいまいにうなずくだけだ。そうこうするうちに、女性にレジの番が来てしまった。アイスキャンデーの代金を払った彼女は、私に手を振って店を出て行く。 開放された気分になった私は、一気に消耗した。外国語を話す人との会話は、確実に私の寿命を縮めている。 「126円です」 スポーツ飲料のバーコードを機械で読み取った店員の声がした。 「あ、はい……」 私は小銭を探すが、あいにく代金に足りなかった。 「すみません。1万円でお願いします」 札を渡す私はようやく大事なことに気が付く。そもそもスポーツ飲料を買うために、ここに並んだわけではない。 「あ、あの…お金を下ろしたいんですが……」 「ATMですか。ウチは外にあるんです」 店員はスポーツ飲料を袋に入れて渡す。私がコンビ二の外に出ると、まるで公衆電話のBOXのようなATMが見えた。他の地域のコンビ二では、店内に設置されているのが普通なのを考えると、やはり歌舞伎町ゆえだろう。 私はキャッシュカードで2万円下ろす。財布の中身は合計3万円。タクシーで帰るだけなら1万円にプラスアルファで十分だが、アマミの店で飲み明かすとなれば、相応の軍資金が必要だろう。財布に札を入れながら、ガラスの扉を開ける。目の前には、茶髪にフサフサした毛皮付きコート、ミニスカートにブーツの女の子がいる。 「あ、おじさん。カード忘れてるよ」 彼女は私の後ろのATMを指差しながら言った。いまカードに入れたつもりだったが、と私が振り返った瞬間、右手に握る財布の重みが消えた。 「あっ、ちょっと……」 今の女の子が私の手から財布を奪ったのだ。彼女は靖国通りを西武新宿線の駅に向かって走っていく。頭が真っ白になりそうになるが、目の前の危機に対応しなければならない。私は必死であとを追った。 (やっぱり歌舞伎町だ…) この街をこよなく愛する石倉やアマミには申し訳ないが、こうして犯罪被害の当事者になってしまうと、そう感じざるを得ない。もしかしたら、財布が取られただけで済んでよかったレベルの話なのかもしれない。もっと凶悪な相手に襲われたら殴られたり、ナイフで刺されたり、どこかに拉致されたりと事態は悪化した危険性はある。 そんな不安が頭をかすめると、追いかけるのをやめたくなるが、笑ってあきらめられる財布ではない。 「待ちなさい、君」 走る、なんて行動は、ここ数年やっていなかった。座る、歩く、寝るのくり返しの生活に慣れきった身体には、全力疾走は負担が大きい。だが、そんなノンキなことは言っていられない。あの財布には現金3万円の他に、クレジットカードやキャッシュカード、レンタルビデオやディスカウントショップの会員証、コーヒーショップの割引券などが詰まっているのだ。 「泥棒です。捕まえてくださいー」 なかなか追いつけない分、私は叫ぶ。しかし、通り過ぎるサラリーマンや女性のグループは、面白い見世物に向けるような好奇の視線を浴びせるか、まったく無反応かのどちらかだった。 (やっぱり、やっぱり歌舞伎町だ…) 再び、強くそう思ってしまう。ここに来る人々だけではない。この街で働く人だって、他の地域とは気質が違う感じがする。 以前、私は自動改札になって初めて新宿駅に来たとき、何度試みても切符が通らないので、駅員に文句を言ったことがある。普段の私ならそんなことはないのだが、あのときはとてもイライラしていた。 「お客さん、これは無理ですよ」 「だけど、ぼくはちゃんと入れるところに入れてるのに……」 「これはJRさんの切符ですよね?」 「そうだよ。さっき買ったばかりでインチキはしてないよ」 「わかりますけど、ここは丸の内線の新宿駅なんです」 いま冷静に思い出したら、私のほうが悪かったようだが、とにかく今回の件は、目の前を逃げている女の子が悪い。それだけは間違いない。 ● 「イッシー、そんなみえみえのウソをつかなくていいのよ」 携帯電話の向こうのアマミはため息をつきながら答える。私が財布を盗まれたくだりを説明しても、信じてくれる様子がない。彼女のいる居酒屋『イモーレ』で飲む約束をしたのだが、お金がなければ実現は無理だ。それ以前に、私が盗まれた資産を守る算段をしなければならない。 「本当なんだ。ATMで下ろしてたら、ふとした隙に財布を取られて、そのまま走り去ったんだよ」 残念ながら追跡した犯人は捕まえられなかった。不幸中の幸いは、財布以外の持ち物は無事だったことだ。携帯電話が使えるのもそのためである。私は誠心誠意を込めて、アマミに説明する。 「じゃあ信じましょう」 やれやれといった口調でアマミが言った。 「ありがとう。本当に途方に暮れてるんだよ。これからどうしたらいいかと思って……」 私は区役所の前の噴水の石段に腰掛けていた。 「とりあえず警察に行くのよ」 「あ、そうか……」 アマミに言われるまで、私はその選択肢を忘れていた。 「しっかりしてよ。それで、そこから……」 「あっ……」 私の耳にアマミの声が入らなくなる。目の前を、さきほど財布を盗んだ女の子が歩いているのだ。 |
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