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「石岡君、市民マラソンに出る」4 優木麥 |
| 幸いスタート地点の混乱には巻き込まれなかった。私だけではなく、転倒者はいない。 「抜け出すことよりも、自分のペースで走ることを考えましょう」 勇治からはくれぐれもそう言われていた。朝の通勤ラッシュのように、私の両隣を次々とランナーが通過していく。だが、まったく気にならない。元より順位は気にしていない。 「気楽に行きますよ。風景を眺めるような感じで……」 伴走する勇治が優しい声をかけてくれる。本来なら、彼はペースメーカーのはずだが、私をハイペースに維持するなど物理的に不可能である。 「ゆ、勇治君、もう少しスピードを落としたい……」 スタートから何分が経過したのだろう。すでに私の心臓はテンポを増し、肌の上を汗が滴り続けている。 「わかりました。無理しないで石岡先生」 勇治は私の背後に回り、こちらが好きなレベルまで速度をダウンさせてくれる。私は、ふと彼に申し訳ない気持ちで一杯になる。本当の実力で言えば、勇治はマラソン大会で上位入賞の狙える選手。それが、私のようなレベルのランナーにつきあっているために、こんな下位のポジションにとどまらなければならない。思い切り駆け出したいであろう気持ちを抑えて、私のサポートに徹してくれているのだ。 「一歩ずつです。前に一歩ずつ足を出すことをくり返せばいいんです」 「ありがとう。勇治君」 そのとき、私たちの前に中継車が姿を現した。テレビカメラのレンズはこちらにフォーカスしている。 「石岡先生、タオル、タオルでアピールを!」 勇治がささやく。慌てて私は首に巻いていたタオルを広げて前方に出す。 「週に1度は蓮の湯でハッスル!」 まるでコンサート会場で、自分たちの手作りのメッセージボードを掲げているようである。あるいは、勝利したランナーが自分の母校の旗を持って走り回っているのにも似ている。 「すみません。そのタオルを下げてください」 スポンサーとの兼ね合いもあるのだろう。カメラマンの横で、中継車に乗っているスタッフが手で払うようなしぐさをする。 「頑張ってください石岡先生。1秒でも長く……」 ある意味、公共の利益を無視した行為は、第三者によって打ち切られた。私たちの前に2人のランナーが飛び出してきたのだ。 「はーい、こんにちは。僕達はお笑いコンビの“シャンシャン爽快”でーす」 なんと2人は、中継車のカメラの前で走りながら漫才をやり出した。 「シャンシャン君は運動神経よさそーやね」 「体力には結構自信あるよ」 「マラソンなんかどう? 挑戦してみたらイケるんちゃう」 「やったことないわ」 「42.195キロは大丈夫やろ?」 「いや、そんなにはアカン」 「やってみいーや。おじーちゃんとかでやってる人おるんやで」 「ボクには無理やな。いま70キロあるもん。そんなに痩せられへん」 「アホか。42.195キロいうのは、体重やない。走る距離や」 「キリの悪い中途半端な距離やな」 「距離に由来があるねん。紀元前490年のアテネとペルシャが闘った“マラトンの戦い”でな。アテネ軍の伝令がマラトンからアテネまで駆け抜けて、息を引き取ったんよ」 「そんなんスポーツにしたらアカンやろ。最初にやった人が死んどるのに…」 「でも、いま君がやってるのがマラソンや」 「どーも失礼しましたー」 お笑いコンビの“シャンシャン爽快”はカメラの前からフェードアウトした。 「何なんですかね彼らは」 勇治は顔を真っ赤にして憤慨している。 「神聖なるスポーツを売名行為に利用しようなんて冒涜行為だ。ねえ、石岡先生。そうは思いませんか?」 水を向けられても、私は返答に詰まる。 「ま、まあ、自分のペースで走ればいいじゃないですか」 人は自分のしていることは客観的に分析しにくいらしい。 ● ついに私に限界が訪れようとしていた。いずれはやってくると覚悟していたが、予定通りなので、自分でも笑いそうになる。 「石岡先生、ツラそうですね」 勇治が心配そうに声をかけてくれた。 「ええ、何とか5キロまでは頑張りたいんですけど……」 私はトレーニング初日に挫折してしまった5キロをひとつの目標にしていた。勇治の話では、平均的な長距離ランナーが5キロを走るのは、20分前後らしい。腕時計に目をやると、スタートからすでに30分近い時間が経過している。 「ゆ、勇治君、ぼく達は5キロは走ったのだろうか」 「まだですね」 勇治の言葉は非情に響いた。想像以上に私はスローペースらしい。 「あとどれぐらいだろう」 正直に言えば、今の私はすぐにでもリタイアしたい。 「もうすぐです。もうすぐですよ」 勇治の励ましの言葉が私にはプレッシャーになってきた。すでに私の体は重く、手足は砂袋でもぶら下げたようだ。 「勇治君、もうダメだ。ここまでのようです」 もはや総理大臣から走れといわれても無理な状態だった。全身の筋肉が悲鳴をあげている。 「石岡先生、よく頑張りました」 隣の勇治の言葉が明るい。しかし、私はその場にへたり込んで、まぶたを閉じてしまう。 「さあ、目を開けてごらんください」 何とか最後の力を振り絞って目を開ける。すると、目の前には「蓮の湯」の暖簾が見えた。 「えっ、ここは……」 「ちょうど、スタート地点から6キロを過ぎた辺りのコースにウチがあったので、何とかここまで走ってもらえたらと思ってたんです」 「おおーっ」 思わず私は感動の声を漏らす。きっと砂漠でオアシスを見つけた放浪者もこんな気分なのだろうか。5キロ走れれば御の字と考えていた私は、勇治のナビゲートによって6キロ以上を走破できたのだ。 「さあ、オヤジがお背中を流そうと待ってます。どうぞ中へ」 「はい。ありがとう」 このときばかりは、私は彼らの好意に甘えることにした。早速、「蓮の湯」に入り、脱衣所で衣服を脱ぐと、浴場へと向かう。 「石岡先生、こちらの考え以上の大活躍をしてくださって。ゆっくりお休みください」 褌姿の次郎が頭を下げた。その後、私は極楽気分を味わうことができた。30分以上、走りぬいて、すぐに広広としたお風呂に入れるなんて、なんとも優雅な話だ。しかも、お風呂を出た後も、天国は続く。 「さあ、冷たいビールでも飲んで、市場で仕入れてきたカツオを召し上がってください」 「すみません。ご馳走になります」 私達は大いに語り、飲み、さらに語った。久々に痛飲してしまった。蓮の湯に入ってから2時間近く経過する。 「お名残惜しいですが、そろそろ」 「お帰りですか。本当に今日はどうもありがとうございました。このご恩は忘れません」 二人に見送られ、私は蓮の湯の暖簾をくぐって外に出る。 「い、石岡先生!」 ヒステリックな声が私の耳に飛び込んできた。振り向くと、汗まみれで足踏みしている須原疾風がいた。 「な、何をしてるんですか?」 詰問調なのは無理がない。彼はこの2時間半もの間、過酷なマラソンをずっと続けていたのだ。私はすでにひと風呂浴びて、カツオのタタキを肴にビールを飲んでいる。 「い、いや……その…」 「皆の前であれだけカッコいい宣言をなさったのに…」 「それは……破ってません」 「どういうことです」 私はもうやぶれかぶれだった。酒が入っていたこともある。 「僕が宣言したのは……週に一度は蓮の湯でハッスル!です」 |
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