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「石岡君、のぞみのグリーン車に乗る」1 優木麥 |
| その日の朝、私は”のぞみ”を待っていた。しかし、胸の内ではのぞみがない”のぞみ” を抱いていた。もちろん、のぞみといっても覇気に乏しい私が何事かを成し遂げるための
希望を渇望していたわけではない。ややわかりにくい表現になっていることを許してほし い。待っているほうの”のぞみ”は、今私の目の前に現れた新幹線で七時五十二分の東京
発博多行だ。最高時速二百七十キロでひかり号よりも早く新横浜、名古屋、京都、新大阪、 岡山、広島、小倉、博多などの主要都市に着くため、出張のサラリーマンに愛用されている。
全席指定の車内は平日の午前中であっても数日前からの予約なしでは席の確保は難しい。 ホームに立つ私の胸中では、この『のぞみ5号』が運行されないことを望んでいた。定員
千三百人を乗せて運ぶ交通機関であることを考えれば、許されない妄想ではあるが、それでも正直いって私の胸には望みがあった。この手にあるチケットが無効である希望だ。た
とえば私の指定席に先着の誰かが座っていて「あなたの席はここではありません」といってくれることだ。あるいはチケット発売時のダブルブッキング、期限切れ、二重発行などでも大歓迎だ。知らず知らずに握り締めた右手の鈴がチャリーンと無情な音を響かせた。 「石岡先生には冷や冷やさせられちゃう、もう」 里美が軽く私の左腕を叩く。 「”銀の鈴”を持って待ってるなんて、絶句…て感じ」 「『銀の鈴で待っていて』を『銀の鈴を持っていて』と聞き間違えたんだよ」 「その間違いってすさまじいよぉ。普通は東京駅と”銀の鈴”という二つの単語で充分伝わるんだから」 里美に教えてもらったのだが、東京駅の地下の中央通路には『銀の鈴』と呼ばれる待ち合わせ場所があるらしい。私はその存在を知らず、大混雑が予想されるため、てっきりそれぞれが手にした銀の鈴を目印に導きあうのかと思っていた。 「そんなわけないでしょ。お遍路さんじゃあるまいし。まあ、ケータイがあったから会えてよかったけど」 それはその通りだが、こと今日に限っては、私は手放しで喜べない。 「考えてみたら、指定席のチケットなんだから新横浜駅から乗ってもよかったのよ。まあ、 いいけどね」 一緒に待っていた里美は大はしゃぎである。無論、私とてこれが里美との単なる旅行で あるなら、どれほどか胸がときめくだろう。しかし、現実は私を名探偵と勘違いした京都 の名家に向かう移動に過ぎないのだ。目的地に着いた後で、間違いなく依頼主を襲うであろう失望、怒り、後悔の念を想像するだに気が重くなる。 「あった。ここね」 さっさと車内に進んだ里美が私を手招きする。日帰りで済むという私の意向など聞く耳 を持たない里美は、海外に行くのかと思えるほど持ってきた荷物を網棚に載せている。世 界に鳴り響く日本の交通機関の運行の優秀さにエラーはなく、私たちの指定席は無人だっ た。せめて幽霊でもいいから見えないかと眼を凝らすが無駄なあがきのようだ。それでも あきらめきれずに、私は何度もチケットの番号と座席の番号を確認する。 「先生は神経質ね。間違いないわよ」 里美が窓側の席に座る。 「さすがにグリーン車ね。足を載せるスペースまであるんだあ。へぇ、イヤホンで音楽まで聴けるのね」 まるで子供のように足をブラブラさせている里美に、私は最後の抵抗を試みた。 「やっぱり…どうしても行かなければダメ…なのかなあ」 「また、その話なの」 里美はうんざりという顔をする。 「だって、先方は名探偵に用があるんだよ。どう考えても、僕はお呼びではないと思うんだけどなあ」 自分の能力に関する否定的な言動なら、私は自信をもって断言できる。 「石岡先生なら大丈夫よ」 「そんな気楽に…何の根拠もないじゃないか」 「ここで重要なことは、先生が自分をどう思っているかじゃないの。向こうが先生を名探 偵だと買っていることよ。こうして京都までのチケットまで郵送してくれたんだもん」 「その時点ですでに決定的な誤解が生じているんだよ」 「しかも、ほらグリーン車よ、グ・リーン・車」 里美は無邪気にシートで体を上下に揺らす。ああ、この分不相応な待遇も私の頭痛のタ ネだ。鈍行列車を乗り継いで来てほしいといわれても、まだ自分にはふさわしいとは思え ない。前提として、難事件の解決に私は何の役にも立たないのだから…。 「まあまあ、とにかくここまで来たんだもん。京都までの旅を楽しみましょう。ね?」 まったく里美は無責任だ。今日まで私は何度もお詫び状を添えてチケット代金と郵送代 を先方に送り返そうと主張したのである。事の発端は、馬車道の私の家に届いた一通の封筒から始まる。 差出人は、京都で旅館業を営む灰島アサ。明治から続く老舗の旅館「灰汁宮(あくのみ や)」の五代目当主だ。もちろん私は面識はない。なぜ縁もゆかりもない私に、わざわざ古都から手紙を出したかというと…。十枚の便箋に綴られた文章の八割以上を読むまでわからなかった。まず旅館の歴史や初代の偉業を称える内容が続く。それによると、ある雪の 深い夜、さる華族が一夜の宿を求めてきたときに、一杯の椀を提供したことから始まると いう。当時の女将が出汁昆布によって灰汁を上手にすくう手際と知恵に感動した華族は「灰 汁宮」の屋号を授けてくれたという。灰汁などという不浄な名前がありがたいかどうかは ともかく、華族はもうひとつ贈り物をくれた。それは「万汁厨房記」なる古文書だそうだ。 きけば天明年間に発刊された「豆腐百珍」に匹敵する価値があり、古今東西の汁料理の奥 義がしたためられているとか。単純な私はその中に「灰汁のすくい方」は載っていないのかと思ってしまうのだが…。まあ、とにかく貴重な古書を「灰汁宮旅館」では所蔵してい たわけだ。 さて、ようやく私に手紙を出した理由に触れられる。アサが久しぶりに家宝の「万汁厨 房記」を取り出そうとすると、虎の子の古文書の代わりに「金銭による取引をもちかける 犯人からの脅迫状」が入っていた。アサは半狂乱となって解決策を模索した。警察に相談 することはたやすいが、同時に綿々と受け継がれてきた古文書を政府にとられてしまうの ではと別の不安を抱いてしまった。なにしろ、アサの自己申告を額面どおり受け取るのな ら「鑑定の仕方によっては国宝級、最低でも重要文化財指定は確実」という逸品らしい。 たとえ犯人から取り戻したとしても、自分の手元に残らない危険を冒す前に、関東で”名 高い名探偵”に頼んでみようということなのだ。 いうまでもなく名探偵どころか、探偵ですらない私が出かけたところで、事態が好転す る可能性は一%もない。だからこそ私は何度もお詫び状を添えてチケット代金と郵送代を 先方に送り返すことが誠意だといった。ところが、事情を聞いた里美の”誠意”は認識を異にしたのだ。 「ここまで石岡先生を頼りにしているのに、味気ない文で断りの手紙を送り返しちゃう の? ヒッドーイ。このお婆さんはどう思うかしらね」 「だけど僕に出来ることはそれぐらいしか…」 「先生がどんなに言葉を尽くして丁寧に断ったとしても、彼女は『やっぱりおエライ先生 は私なんか相手にしてくれないんだわ』と傷つくと思うな、きっと」 「うーん」 「行きましょうよ。直接会って事情を説明することが、誠意なんじゃなーい?」 あのとき渋々ながらも承諾した自分の浅慮を悔いている。大体、京都行きが決まった次の瞬間から、旅行会社のパンフレットやガイドブックを眺めて悦に入っていた里美の言葉 など当てにならない。私の胸の奥底から義憤の感情がせり上がってきた。今からでも遅く はない。私が京都に行っても無意味だ。一旦、新幹線から出よう。そして用事を済ませている間に間一髪で新幹線は発車してしまえばいい。完璧なシナリオだ。乗り遅れてしまったものはしかたがない。 「ねえ、里美ちゃん」 私はできるだけわざとらしくないように真面目な声でいった。 「車中が長いから、サンドイッチか何か摘めるものがあったほうがいいよね」 「それもそうね」 里美はあっさりと同意してくれた。私の勝ちだ。 「じゃあ、僕がちょっと買ってくるよ」 「あ、先生」 私を呼び止めたときの里美の目は、まるでいたずらをする子供を見る母親のそれだった 。 「たとえアメーバ赤痢にかかっても、隕石群が降り注いでも、ゾンビに襲われても、発車 前にここに戻ってこなかったら、先生自身の意図的な行為とみなしますからね」 一瞬の静寂の後、私はこわばった笑いを返す。 「も…もちろんだとも…」 里美は鋭い。私の性格と行動を読むようになってきた。 「どうして先生は、両手にサンドイッチ持ってるの?」 「だって、前の席の後ろに付いているトレイがないじゃないか。グリーン車なのにそこは不便だよなあ」 敵前逃亡をあきらめた私は車内に戻ってきた。買ってきたサンドイッチを食べているのだが、簡易トレイが見当たらず手で持つしかない。 「ウフフ。ジャーン」 里美は椅子の肘掛のカバーを開けると、折り畳まれていたトレイを引き出した。 「へえ、そんなところに収納してあるんだ」 「ところで先生。相手の依頼を断るからお土産を持参するんでしょ。何を買ってきたの? 草加煎餅?」 「ああ、これなんだけど」 私は昨日購入した菓子折りを取り出した。 「もう、もうもう」 里美はあきれたように天を仰ぐ。 「どうして、よりによってこれを買ってくるのかなあ」 一目見て里美は表情を曇らせた。 「京都の人へのお土産に『八ツ橋』なんか持っていけるわけないじゃん」 「僕は好きなんだけど…」 私はうなだれる。弁解無用の失態だ。たしかに静岡在住の人を訪ねるのに静岡茶を持参 する人や、広島在住の家におジャマするのに紅葉饅頭を渡す人はいないだろう。 「このお土産だったら、かえって侮辱に感じちゃうかもよ。手ぶらで行く方がマシだわ」 「フォッフォッフォ…」 私の左隣から笑い声がした。通路を挟んだ向こう側の席に一人だけ座っている人物がい る。今笑ったのはその老人だった。 「京都まで行かれるのかな」 「ハイ」 老人は白髪を総髪にして束ね、鮮やかな群青色の作務衣を着ていた。ウイスキーボトル 大の箱を浅黄色の風呂敷で包んで膝に抱いている。 「八ツ橋のいわれをご存知かな」 「いえ」 唐突に質問されて、私たちは答えられない。 「八橋検校…」 老人は優しく微笑んでいる。 「近世筝曲の祖といわれる彼を偲んで、その門弟たちが生み出した干菓子が『八ツ橋』じ ゃ。琴の形に似せてつくったからといわれておるのう」 私はお話好きの老人が好きだ。こういう人物と接していると心が和み、豊かになる気が する。 「お爺さんだって、何かの師匠なんでしょう?」 里美がストレートな質問をする。ぶしつけな言い方が機嫌を損ねないかどぎまぎしたが、 老人はニコヤカな表情を崩さずに答えた。 「フォッフォッ。師匠なんて大したものではないが、陶芸を少々嗜んでおってな。名は、 喜兵衛という」 |
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