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「石岡君、カリスマ美容室に行く」1 優木麥 |
| 「クローン技術は怖いねえ、お客さん」 タクシーの運転手からその言葉を投げかけられたとき、私はとっさの受け答えができなかった。あまりにもその場にそぐわない話題だったからだ。通常、タクシーの車内での会話といえば、天気や政治などの一般的な話か、芸能スキャンダルやプロスポーツの試合などの時事ネタが多いのではないか。突然、クローン技術の話を振られても、突飛な印象は拭えない。 「世の中、政府が発表していることを鵜呑みにしてたらとんでもないことになっちゃう」 運転手はこちらの反応にお構いなく、話しつづける。私は柄にもなくタクシーに乗ったことを少々後悔していた。里美から懇願の電話がかかってきてからまだ二時間も経っていない。例によって彼女は生命力に満ち溢れた若い女性特有の、相手の状況に関わらず非常事態にある自分に手を貸すべきだという口調だった。 「クレジットカードを忘れてきちゃったの。東京の青山にある美容室に」 「え、大変だね。すぐにお店に連絡したほうがいいよ」 「うん、もうしたわ。それでスタッフの人に忘れ物として保管してもらってる」 「それなら安心だ」 ここで里美から躊躇するような態度が伝わってきた。受話器越しだが、そういう雰囲気は私もなんとなくわかるようになったのだ。 「どうしたの。なにか問題でもある?」 「実は、名古屋のセミナーに出なければならなくて、もう東京駅なのよ」 「そうなんだ。頑張って勉強を…」 「二泊三日だから、東京に戻るまでクレジットカードをずっとその美容室に置いておくことになるのよねえ」 再び間を置く里美。どうやら彼女が言いにくいことを私は口にするように求められているようだ。 「もしかして、ぼくにカードをその美容室まで取りに行ってほしいの?」 「ピンポーン。すごーい。さすがは名探偵の記述者ね」 「今日は勘弁してもらえないかな。明日ならいいよ」 ふだんの私であれば、里美の依頼は二つ返事で受ける。しかし、この頃はこれといって理由はないが、少し気分的に落ち込んでいた。そのうえ、雨が降っていたため、私としては沈む心にさらに重りがかかったようだ。どうしても、馬車道のソファから腰を上げて、都内の原宿の方まで出ていく気力が生まれそうになかった。 「ダメよう。クレジットカードを他人が保管しているなんて、どうしたって安心できないじゃない。もちろん、そこのお店の人たちは信用しているけど、個人情報なんて一瞬で盗まれちゃうのよ。とても集中して勉強に打ち込めないわ」 「うーん、そう言われるとなあ」 「とにかく、石岡先生にお願いするしか方法はないの。困っているのがわかるでしょう」 どうやら、泣く子と里美には勝てないと観念するしかなさそうだ。 「わかったよ。なんていうお店?」 「先生ありがと。青山通りと表参道の交差点にある羊の看板が出ている美容室よ」 ところが電車を乗り継ぎ、渋谷駅まで来たとき、私の鬱な気分は最高潮に達してしまった。どうしても一歩も歩きたくない。そこで、珍しいことだが、タクシーを拾ってめざす美容室まで送ってもらうことにしたのだ。しかし、私が乗って走り出すやいなや、運転手は冒頭の「クローン技術」の話を始めた。ただでさえ気がふさいでいる私は、申し訳ないが、できれば他人と会話などしたくない。とはいえ相手を無視すれば、こちらの気分もよくないことは事実だ。そこで気の利いた言葉を返そうとは努力するのだが、なにしろ運転手は、こちらの知らない分野の話を次々と繰り出して、口を差し挟ませなかった。 「クローンの語源はギリシャ語のKLONからきてるのよ。小枝という意味でね。そもそもクローンの定義がわかるかなあ」 「さあ…」 「遺伝的に同一の個体や細胞のこと。たとえ親子でも同一の遺伝子を持っているわけではないからね」 私の心中を忖度することなく、彼は「ゲノム」だの「染色体」について持論をぶちまけている。 「そういえば、クローン羊が騒がれましたね」 大通りを右折するため、運転手の言葉が途切れた瞬間に、私はクローンについて知っている唯一といっていい知識を披露した。 「へえ、お客さんもよくご存知だねえ」 運転手が感心したように言った。私からすれば新聞や雑誌で騒がれているのだから、むしろクローンという単語を聞いて多くの人が連想する話題の筆頭に挙げられると思う。 「イギリスで生まれた世界初の"体細胞クローン羊"。でも、ヤツになぜ"ドリー"って名づけたか知ってる?」 「いえ…」 「ドリーというのは暗号なんだよね」 「暗号…?」 ドリーの話でようやく私にもなじめる領域になったと感じたのもつかの間、運転手の話は再び飛躍した。 「実はDORIEってのは、Devil′s Own Real Invisivle Empire(悪魔の支配する本当の見えない帝国)の略なの」 「はっ…?」 初めてお目にかかる珍説といっていいだろう。 「あ、笑ってるねお客さん。やっぱり予備知識なくて聞いたら信じられないか。でも、これ本当の話」 「そういうユニークな考え方に興味はありますけど。にわかには信じられませんね」 「そのDORIEって組織はさ、すでに世界中で膨大な人数のクローン人間をつくりだしてるんだよ」 「クローン人間…? それはどこの国の法律でも禁止されてるはずです」 あまりにも断言口調でいう運転手に対して軽い反発を覚えた私は反論する。 「甘いなあ。歴史の裏では、つねにもうひとつのストーリーが進行してるの。使える技術と効しがたい魅力があるのに、欲望を抑えられるわけないじゃない。実際に日本で発覚したケースだけでも結構あるんだよ。国立の研究機関や、いくつかの大学の医学部では集団検診で集めた血液を被験者に無断で遺伝子解析してるんだって。新聞にも載ったしね」 不謹慎かもしれないが、私個人としては、たとえそれが事実だとしても感じるものは少ない。どうでもいいとまではいわないが、思案するべき問題には、私の人生における優先順位がある。 「髪の毛一本だよ」 「えっ…」 「だから、クローン人間は髪の毛一本あれば作れるんだって。それぐらいの体細胞の遺伝子情報だけで十分なんだよね」 「そうなんですか」 私の気のない相槌にも動じることなく、運転手は論を展開していく。 「DORIEには、世界中の学者やスポーツ選手、政治家達のクローンが用意されているらしいよ」 荒唐無稽も極まれりである。この手の与太話に巻き込まれるとろくなことにならない。私は節度を守って応じることにした。 「ですけど、たしかクローン人間をつくってもオリジナルと同じ人格にはならないんですよね。よく言われるたとえで、ヒトラーのクローンを作ったとしても、環境が違えば同じ人格にならないとか」 私の意見に猛然と反論すると思えた運転手は意外な反応を見せた。ニーッと嬉しそうに笑ったのだ。 「お客さん、博学だねえ。そうなのよ。クローンはオリジナルと同じ人格にならない。そこが重要なんだって」 興奮した運転手がひんぱんに後ろを振り返るので、私は彼の話より前方不注意のほうが怖い。 「だからこそ、DORIEはクローンをつくるのよ。クローン人間の人格が白紙だっていう性質を逆に利用してやがる」 「はあ…」 「つまりね、自分達の帝国にふさわしい従順な人格にしてしまうわけ。だって、世界中の著名な学者やスポーツ選手たちにはそれぞれの信条や思想があってとてもひとつにまとめあげることはできない。だからこそ優秀な頭脳、類まれな美貌、高い運動能力などを受け継いだクローン人間たちをDORIEの構成員にしてるんだって」 「それは、世界の危機ですよね」 仕方なく口にした迎合の言葉だったが、運転手はハンドルをバンバン叩いて喜ぶ。 「その言葉を待ってたよ、お客さん。そうなんだ。いまや世界に危機が迫っている!」 「は…はい」 異様な迫力にこちらは身を引く。 「どうだい、お客さん。DORIEから世界を救う戦士になってみないかい?」 「えっ、いや…えっ?」 こんな誘いを受けて、どういう反応を見せたらいいのか困ってしまう。 「言っちゃおうかな。何を隠そう、タクシーの運転手は仮の姿。しかし、オレの本当の正体は…」 「あ、そこで結構です。止めてください」 私が彼の見せ場を遮ったのは、悪意からではない。本当に目的地である青山通りと表参道の交差点に到着したのだ。もちろん、その好機に乗じたことは否定しない。急激に熱が引いた運転手は事務的に清算した。だが、名刺を渡す際に、一言付け加えることを忘れていない。 「いますぐ返事をくれとは言わないよ。でもね、決心がついたらいつでも連絡ちょうだいね」 お釣りを受け取る私の手に押し込めるように名刺が渡された。 「どうも、すみません」 私は逃げるようにタクシーを降りる。いつのまにか雨は止んでいた。私が乗ってきたタクシーは走り去る。それにしても今の運転手の話は何だったのだろうか。有名人の髪の毛からクローン人間を生み出す組織DORIE。私はいかんいかんと頭を振る。今日の脳が難しいことを考えられる状態ではないことを思い出したのだ。とにかく、里美の忘れたクレジットカードを受け取ってさっさと馬車道に退散しよう。青山通りと表参道の交差点に立つ私は周囲を見回す。すぐに羊の看板の美容室は見つかった。 「SALON DORIE」 沸騰するヤカンからの蒸気のように私の胸に不安が湧きあがってきた。 |
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