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「御手洗潔が架空の人物ではないというのかね」
大賀はどっちでもいいという物言いだった。
「ええ、誓って」
「だったら、その御手洗さんは石岡先生の新しい門出を祝福してくれるとは思わんかな」
「まさか」
私は破顔した。この世でそれだけはないと断言できる数少ない事柄である。
「御手洗が私の出馬の話を聞いたらこう言うでしょう。『石岡君、君は生涯で二つも”先生”と呼ばれる仕事を選ぶのかい。嘆かわしいね』と…」
言い終わってから私ははたと気が付いた。間違いなく御手洗ならそう言うことに確信はあるが、大賀は不快な思いを抱いたかもしれない。ちょっとビクつきながら、彼の顔を伺うと、意外にも笑みを浮かべていた。
「なるほど。それは手厳しいご友人ですなあ」
自分の職業への侮辱ととられなくて、私は胸を撫で下ろす。
「さあさあ、先生。お酒はダメでも、料理はいけるでしょう。召し上がってください。今日の先生との顔合わせのために吟味させましたのでね」
脇息にひじを突いてもたれかかる大賀は、その名の通りの巨漢。対面の当初から出される料理と酒をハイペースで平らげていた。私もちょこちょこと箸はつけていたが、断るために足を運んでいるという負い目からあまり味を楽しむ気分にはなれなかった。テーブルの下は掘り炬燵になっているのだが、私は何度「足を崩してラクに」といわれても正座したままだ。襖が開くと男性数人によって大ぶりの見事なマグロが運ばれてきた。
「おっ、来たか来たか」
大賀が目を細める。
「本日、築地で競り落としてまいりました極上の近海マグロでございます」
女将と名乗った女性が説明する。
「女将、たしかいい値がしたんだよな」
「ハイ。一本いたしました」
私には意味がよくわからない。そんな私の表情を察したのか、大賀の隣に控える若月が助け舟を出してくれた。
「石岡先生、一本というのは、一千万円のことです」
「えっ…! いっ、いっ、せんまん!」
私の心臓は止まりそうになる。一千万円の仕入れで元が取れるのか心配だ。では、刺身一切れ数千円になるのだろうか。
「もちろん、赤字もいいところでございます」
今度は女将が私の心を読み取ったように言った。
「ですが、私どもはこれが商売。これが粋でございます。石岡先生の晴れの席のため、微力ながら心添えをさせていただきました」
「あ、いや、その…私は…」
こういうことは苦手なのだ。私のためにといわれてしまうと、とても無碍な態度は取れない。ましてや一千万円など…。
「まあ、ええがな。話はあとあと。女将、早く今日の主役に差し上げて」
「はい、ただいま」
いそいそとマグロが部屋から持ち去られる。厨房で料理されるのだろう。しかし、私はすでに胸もお腹も一杯である。
「幹事長代理。困ります。一体、どうしてあんな大層な物を…」
「呑舟の魚は支流に遊ばず!」
再び大賀の銅鑼声が響いた。
「私の派閥の長が好きな言葉ですよ。舟を飲み込むような大きな魚は、支流にいたりしない。大海を悠悠と泳ぐものだとね。まさにあなたにもピッタリだ。文筆も立派なお仕事ではあるが、男子一生の仕事ではない! とは思いませんか?」
「私にとっては文筆だけでも十分というか…まだまだでして…」
狼狽したときの私のクセで額から汗が滴り落ちてくる。私はハンケチで必死にそれを拭いながら、自分では文章で作品を紡ぎ、世間に発表して口に糊する生活こそがもっとも自然でいられる生き方として選んだという意味のことを、あっちこっちに飛んだり、突っかかりながら話した。しかし、大賀は私の話を聞いているのかいないのか、脇息にもたれて日本酒を啜っては料理を口に入れ、半目になったまま黙っていた。
「お待たせいたしました」
ついにマグロの料理が運ばれてきた。
「おっ、いい仕事をしたなあ」
大賀は半目にしていた目を大きく開ける。
「ビントロの部分を串に刺して炙りました」
私の目の前にサイコロ大のマグロの肉の串焼きが置かれた。
「さあさあ、石岡先生」
串焼きに伸ばす私の手の指先が震えている。あの目方で一千万円ということは、これぐらいの部分だといくらなのだろう。そんな貧乏性な考えをすることをはしたないとは思う。しかし、ふだん食べているコンビニ弁当や「馬車道ポニー」の定食とは桁違いな値段の格差に思考回路が停止しそうである。
「アッチッ熱い」
思わず私は手を引いた。まだ炙ってきたばかりなのか串焼きの串の部分が熱を持っていて、とても摘める温度ではないのだ。
「そうだ女将。石岡先生に手袋を差し上げないと」
「ハイ、ただいま」
私の横に寄ってきた女将から渡されたのは白手袋だった。
「えっ、これは…?」
「まあまあ、召し上がって。ほら先生」
「はあ…」
急かされるままに私は白手袋をはめる。それで串焼きを掴もうとしたとき。
「女将、気がきかんなあ。炙り肉の場合、肉汁が垂れる可能性があるんだから、エプロンをしないとマズいだろう」
「うっかりしてましたわ。ただいま」
何となく二人のやり取りから、私はまだマグロが食べられないようなので、串を皿に戻す。間髪を入れず、またも女将が傍らに来ると、私の首からタスキのようなものを肩に掛けた。いや、完全なタスキである。
「○×党公認 比例区 いしおかかずみ」 と書いてある。鈍感な私もここまでやられては気づく。
「ちょっと、これは勘弁してください。私は立候補することはお受けしておりませんし…」
「いやいや深くお考えにならないで。まずはマグロを召し上がって。さあ冷めないうちに」
大賀の強引な仕切りによって、私は白手袋に、タスキ掛けしたままマグロの串焼きを口に運ぶ。中まで完全に火が通っているのではなく、いわゆるレアな状態で、生の旨みを逃がさずに炭火で焼いてあって本当に美味しい。
「いかがですかな」
「美味しいです。これは本当に美味しいと思います」
私は心からそう感じた。
「喜んでいただけて私も嬉しい」
「いやあ、すみません。私のためにこんな豪勢な…」
「何の。お気になさらなくて結構ですよ」
「いえ、でも…その…本当に心遣いはありがたいのですが、私は出馬に関してはご辞退を…」 ここまで接待されては、本来の私であればとても断るどころの心境ではなくなるのだが、参院選挙への立候補をすることはどうあっても無理だ。いかに心苦しくても、引き受けるわけにはいかない。
「ほう、なるほど。噂通りの手強いお人だ」
大賀の口調が多少砕けてきた。
「ここからは永田町の論理でやらせてもらいますか」
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