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「石岡君、おしゃれなバーで待ち合わせをする」2 優木麥 |
| 「君が誘ったんだよ。バーで待ち合わせをしたいって」 ついつい恨み節になる。里美が現れるまで、カウンターを挟んでバーテンダーと洒落た大人の会話を続けられる自信はない。いや、30秒ともたないだろう。というより、すでに窮地に陥っている。私は、自分が飲む一杯の酒のオーダーすらオタオタしてしまうのだ。 「雰囲気は悪くないお店でしょ? 石岡先生好みだと思ったんだけどなあ」 「でも、いまぼく一人なんだよ」 「あら、よかったじゃない。マスターの井原さんを独占できて。あの方、若いけど渋いでしょう。お客さんの人気が高いのよ」 目の前の人物は井原という名前だと知った。 「とにかく、物理的に行けないんだから、駄々をこねるんじゃありません。いろんな刺激を受けることも大事なのよ、石岡先生」 通話は切られた。私は悲観的な気分で携帯電話をしまう。もちろん、この「モンキーフリップ」が居心地が悪いわけではない。落ち着いたレイアウトの店内は、井原の管理が行き届いていて小物に至るまでセンスのよさを感じさせる。ミニチュアの木の樽、年代物のチェスの駒、イギリスの田園地帯を描いた風景画などは、どれひとつ取っても、井原がまつわる逸話を聞かせてくれそうだ。しかし、井原や店が洗練されていればいるほど、私には慣れない空間と化してしまう。ハッキリ言えば、最初から尻込みしたくなるムードだ。井原の相手として、客としての自分のレベルが釣り合っていない。 「失礼ですが、石岡先生でいらっしゃいますよね」 突然、井原に名前を呼ばれて私は「は、はい」と戸惑いながらうなずく。 「犬坊さんから本日、先生とこちらで待ち合わせをするとご連絡いただいておりました。ご挨拶が遅れましたが、私は当店の店長を務めております井原と申します」 丁重に差し出された名刺を受け取るが、私には渡すべき名刺はない。 「石岡和己です。あの……正直言いまして、こういうバーのようなお店は慣れてないものですから……」 自分でもなぜ言い訳するのかと嫌になるが、井原は笑顔でうなずいてくれた。 「かしこまらないでください。お好きなお酒を楽しく飲んでいただければ、それでいいのですから」 「はい。よろしくお願いします」 頭を下げる私自身、何をお願いしているのかわからない。反射的にへりくだってしまう態度をよく里美に注意される。彼女に言わせれば「石岡先生も世間ではひとかどの人物として名が通っているんだから、あんまり安目を売ってはダメよ。先生の基準からしたら少々尊大に見えるかな、と思うぐらいの態度でも他人は不快に思わないよ」となるのだが、とても私にはできない。 「それで、何のシングルモルトを召し上がりますか?」 「えっ……」 どうやら、まだ私は注文をしていないらしい。 「ご存知の通り、シングルモルトとは、ひとつの蒸留所で造られるモルトウイスキーだけを瓶詰めにしたものです」 「はい……」 さりげなく井原は私にレクチャーをしてくれているようだ。 「日本で広く飲まれているのは、ブレンデッドウイスキーと呼ばれまして、モルトウイスキーとグレインウイスキーを混合させたものです」 「グレインウイスキー?」 「主にトウモロコシなどを原料に連続式蒸留器で蒸留させたウイスキーです。マイルドな当たりで飲みやすいんですが、お酒としての個性には乏しい。その点、大麦麦芽モルトを単式蒸留器で蒸留したモルトウイスキーは個性が多様で楽しいですよ」 「はあ、はい……」 井原は熱心に説明してくれている。私には「味がわかりませんから何でもいいです」とは、とても口に出せそうな雰囲気ではない。 「石岡先生にオススメなのは、そうですね。ウーン……島モルトを試してみますか」 「島モルト…?」 「ええ、初心者の方がスコッチウイスキーの奥深さに目覚めて、ハマるきっかけになるのは、島モルトなんです」 ハマりたいとは毛ほども思わないが、私は井原の話にうんうんとうなずく。聞き役に徹するしかないのである。 「スコッチウイスキーの生産地であるスコットランドの北西部に点在する大小の島々で蒸留しているモルトが通称"島モルト"。ここ数年、日本での取扱量がグッと増えているんですよ」 井原は背後の棚から一本のボトルを手に取る。 「カリラの12年物をお試しください。基本的に島モルトはクセがあって、香りがスモーキーなんですけど、これは比較的バランスがいいので、飲みやすいんじゃないかな」 琥珀色の液体が注がれたテイスティンググラスが私の目の前に置かれる。 「まずは香りをお楽しみください」 井原の言葉に従って、私はグラスを鼻に近づけた。強烈なアルコール臭に、うっとむせそうになる。 「ピートと磯の香りがたまらないでしょう。その匂いがやみつきになって、モルト派に転向する人が多いんです」 「ピートって何ですか?」 「麦芽を乾燥させるときに焚く泥炭のことです」 説明されても何のことかよくわからない。 「どうぞ、今度は舌で味わってください」 「あの……これ、ストレートですよね?」 「モルトの良さが一番わかりやすいと思います。どうか、ひと口でもお試しください」 そう井原に言われれば、私には反論はない。お酒に弱い自分が、ストレートの酒を呷るのは無謀な気がする。井原が興味津々の目でこちらを見ているので、文字通り試してみよう。 「うげっ!!」 口の中に広がる薬に似た味。そして、飲み込む瞬間に喉を焼かれる感覚。私は思わず「み、水をください」とむせながら叫んでいた。 「すみません。ストレートは強すぎましたか」 手渡されたグラスの水を一息に飲み干す。それでも、喉の奥は熱でヒリヒリしていた。 「割ったほうがぼくに合っていると思うんです」 私は躊躇なく言った。さすがに身の程を知ったのだ。 「氷を入れていただけませんか?」 「ロックはおススメしません」 井原がきっぱりと言う。 「氷で冷やしてしまうと、せっかくの香りが飛んでしまうんです」 「は、はあ……」 「水で割りましょう。トワイスアップでいいですね?」 また難解な単語が出てきた。 「何ですか? トワイ……」 「トワイスアップ。お酒と水を1対1の比率で割ることです」 それでは、私の感覚ではかなり濃いのだが、いたしかたあるまい。ストレートで飲むよりはいくらか飲み口はマイルドになるはずだ。 「割るのは、やはり同じスコットランドの水です。日本の水もやわらかいから、水割りには適してるんですね」 そう言いながら井原が水割りを作ってくれる。飲んでみると、先ほどと比べればはるかに飲みやすくなった。沈黙が訪れる。私はタバコを吸わないので、こういう場合、手持ち無沙汰になってしまう。グラスの酒もチビリチビリしか飲めない以上、間がもたない。話題のタネを探して店内に目をやるとローマ数字の置時計の横に"98"と書いた紙が貼ってある。 「その98は何を意味してるんですか?」 私の言葉に井原が相好を崩す。 「すごくプライベートな話ですが、お聞きいただけますか?」 「ええ、是非…」 「実は、私は現在つきあっている恋人がいます。できれば彼女と結婚したいと考えているのですが、問題がありまして……」 話しながら井原は、私のチェイサーのグラスにミネラルウォーターを注いだ。 「彼女の父親は公務員で、頭がカチカチなんです。こういうバーの店長という職業を水商売の男は認めんとけんもほろろで会ってもくれません。でも、あきらめられずに手紙を何通も書いてアピールしていたら、ようやく向こうも折れて、条件を出してきたんです」 「娘さんと結婚するための条件ですか」 「ええ、3カ月間で、スコッチウイスキーを100本、空にしたら認めてやると言うんですね。正直言って厳しい条件でした。なにしろ、シングルモルトはボトルキープされても、何回にも分けて飲むのが普通のお客様ばかりですから。でも、何とか98本までは空にできたんです」 「あと2本じゃないですか」 私にはゴールが見えている気がした。しかし、井原は浮かない顔だ。 「2本なんですけど……タイムリミットが今夜の12時なんですよ」 |
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