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「石岡君、ビジネススクールで学ぶ」 1 優木麥 |
| 「先生、社長になりませんか?」 菅野美香の質問は、とても私に向けられているものとは思えなかった。室内には二人しかいないにも関わらず、後ろを見て誰かいないか確認したほどである。 「絶対に会社組織にするべきですって」 美香ははかない希望を私に託している。あまりに突拍子もない提案に対して、即座に対応する言葉も態度も私は持ち合わせていない。電話であれば「水戸黄門の再放送が始まりますので」と受話器を置いている。「大事なご相談なんです」と食い下がられても、「今日は毎シリーズ恒例のニセ黄門の回ですので、すみません」と切る自信はある。しかし、目の前に可憐な女性が座っていて、分厚い書類のファイルとメモを手に熱心に語りかけられては、あまりそっけない態度をとれない。 そもそも、昨日の電話の段階で断るべきだった。私は「断固としてミステリー作家の地位を向上させる会」の顧問アドバイザーを勤める菅野美香から会いたいと連絡を受けたのだ。無論、そんな会の存在は初耳である。 「石岡先生も、ご自身の才能と実績に対して、さまざまな面で不当な待遇を受けていると思われますよね」 電話口から聞こえる美香の言葉に、私は最初からピンとこなかった。 「いえ、ぼくは自分に才能があるなんて思いませんし、ましてや実績など……」 「まあまあ、許されないことですわ。世に比類なき才能の持ち主が、ここまで感性を鈍磨させられていたなんて…。不遇な立場に身を置きつづけると、それが常態となり、不遇であることさえ麻痺させられてしまうんですね。私たちは後世のミステリー愛好家達になんとお詫びすればいいんでしょう」 ますます私にはピンとこない。むしろ、遠ざかっている気がする。 「私たちには、石岡先生に対して才能と実績が正当に報われるよう、微力を尽くす用意があります」 「いえいえ、とんでもないことです」 美香の申し出は半分も理解できないが、大仰な提案にうかと乗れば、その後とんでもないことになると、私は経験から知っていた。 「何をおっしゃいますか!」 受話器の向こうで美香は声を張り上げた。思わず私は耳を離す。 「これは石岡先生と同時代人である私たちの義務です。先生を然るべき位置に据えなければ、私たちが後世の人々から笑われますわ。この時代を〃失われた10年〃などと評価されるかもしれません」 私自身は、自分のことが後世の年表に載るなどと夢想だにしていないので、その心配はしていない。だが、あまりに真剣に話しつづける美香への情にほだされて、ついに翌日、会うことを承諾してしまった。 そして、横浜駅の近くの喫茶店の個室で会った美香は名刺交換もそこそこに、冒頭の言葉を切り出してきたのだ。 「先生、社長になりませんか?」 再び彼女はくり返した。今度は、そう言った後で私の顔を見つめ、返答を待っている。 「いえ、あの……」 何と言えばいいのかわからない。質問が、私の人生の中でほんの五秒も考えたことがない内容だからだ。基本的に私は質問をはぐらかしたり、答えなかったりすることが好きではない。だから、読者の方や、編集者からよく尋ねられる質問に対して、自分なりに誠実に答えてきたつもりだ。 「なぜ結婚しないのですか?」 「新作はいつ出るのですか?」 「御手洗さんに会いたいと思いませんか?」 実はワイドショー番組は好きでよく見るのだが、タレントや文化人が取り囲むマスコミを押しのけるようにしてノーコメントを貫く、あんなことは私にはできないだろう。しかし、考えたこともない質問には、どう答えればいいのか。 「カメレオンを飼いたくないですか?」 「なぜF1レースに出ないのですか?」 「18世紀のフランスに生まれるとしたら、どんな人になりたいですか?」 このようなかけ離れた問いかけに私は即答する考えも言葉も持っていない。しかし、美香は相変わらず私の顔を凝視している。仕方なく、正直に答えることにした。 「いやあ、社長とかまったく考えたことがないですね」 その答えを聞いた美香の表情が一変する。まるでショーウインドーに飾ってあるドレスを欲しいと言ったのに「売約済み」だと知らされたかのように、失望と憤りがないまぜになった顔だった。 「だから、景気がよくならないのよ!」 突然、美香は髪を振り乱して、テーブルの上のファイルを手に取ると、何度も手で叩きつけた。バンバンと鳴る音の合間に、彼女は叫ぶ。 「この国の未来を放棄しないで!」 私はあっけにとられた。 「才能ある人には、大きな責任もあるんだから!」 「み、美香さん、あの……」 「構造改革が必要なのは、石岡先生じゃなくって!」 テーブルが叩かれるため、コーヒーカップがソーサーの上で跳ねてガチャガチャ鳴っている。私は中腰で立ち上がりそうになった。しかし、美香の勢いはますます激しくなっていく。 「デフレ対策が必要なのは……」 「わかりました」 私は両手を前に出してなだめるように叫ぶ。 「えっ、何ですか」 「わかりましたから。落ち着いてください」 私の言葉に美香は笑顔で両手を合わせた。 「わー、本当にわかっていただけたんですか?」 「…は、はい」 何がわかったのか、自分ではまったくわからない。ただ、とにかく錯乱状態の美香におとなしくなってほしかった。 「では、会社組織を作り、社長になっていただけるんですね」 美香の言葉を聞いた私は首を捻る。 「どういうことでしょうか」 「作家というお仕事が個人作業であることは承知しています。しかし、実際の製作をなさるのは石岡先生だとしても、そこから派生するさまざまな業務は、他のスタッフに代行させるのが一番ですよ」 怪訝そうな顔を浮かべようとした私は、すぐに笑顔を作って美香に確かめる。 「派生するさまざまな業務、と言いますと?」 「例えば、リサーチ業務。作品を書くときに資料による裏づけが必要になりますよね。その際に、いちいち石岡先生が貴重な執筆の時間を削って資料を探したり、確認したりするのは非効率的ですよ。そういう雑務は他のスタッフがやったほうがいいでしょう。他にも、財務管理や、グッズの交渉・製作管理、テレビや雑誌などの媒体出演交渉など、分業にすることでそれぞれの売上も上がるんです」 私にはとてもそうは思えない。どれひとつ取っても、私一人で事足りているどころか、十二分なのである。 「そのへんは、あまり効果がない…かなあ」 美香の表情がチラッと曇りかけたが、すぐに思い直したようだ。 「確かに、スタッフを抱えるのは、成長の規模に応じれば構わないでしょう。今すぐでなくてもね。しかし、会社という器は、立ち上げておくべきです」 「なぜ、ですかね?」 「社会的な信用、地位の向上、税金対策、マスコミへの窓口……など多岐に渡るメリットがあるじゃないですか」 どの要素も今の私にとってはまったく魅力的ではない。しかし、また必要の有無で断れば、堂々巡りになる。そこで断る口実の切り口を変えることにした。 「実は、ぼくは社長に不向ききわまりない人間なんです」 「と、おっしゃいますと?」 「人とお会いするのが好きではありませんし、ダマされやすいんです。お金などの数字にも弱い。売ったり買ったりする営業力はゼロと言っていいくらいです」 おおげさに伝えたように聞こえるかもしれないが、私自身はまだ言い足りないぐらいだ。予想に反して、美香は優しい笑顔を変えなかった。 「その点については大丈夫です。お任せください」 「と、おっしゃいますと?」 今度は私が尋ねる番だった。美香は満面の笑みを浮かべながら、初めてファイルを広げる。 「石岡先生を立派な経営者にする準備は万端です。なにしろ先生にはビジネススクールに入学して戴きますから」 私は足元の床がパックリ開いて、落とし穴が現れた気分だった。 |
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