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「石岡君、喫茶店マスターになる」2 優木麥 |
| 「私達、今日で最後なんです」 女性客は今にも泣き出しそうな顔で言った。 「ごめんなさい。興奮して。私は木島洋子。あの人は恵司です。お察しの通り、夫婦をしてきましたが、いま離婚協議をしている最中なんです」 二人が話している雰囲気から、別れ話だという気はしていたが、籍まで入れていたとは思わなかった。 「でも、私はあの人を愛しています。絶対に別れたくない。それなのに、もう負けてしまいそうで…」 洋子の目が真っ赤になっている。私は彼女にハンケチを差し出そうとするが、手にしていたのがお膳を拭く雑巾であることに気付き、慌てて引っ込める。 「頑張ってください」 「マスターも応援してくれますか?」 「もちろんです」 「それなら、私達がこの店にいる時間をできるだけ引っ張ってください」 「どういう意味ですか?」 「あの人が離婚届を出そうと強硬に主張するのを、私が『お茶一杯飲む時間だけ猶予が欲しい』と言ったんです。だから、そのお茶一杯を飲むまでは、どれだけ長かろうと役所には行かせません」 洋子の目には悲壮な光が宿っている。私自身もこの周辺を歩いたからわかるが、喫茶店の類が極端に少ない。だから、ここでお茶を飲めなければ、他の店には行きにくいだろう。私はなけなしの騎士道精神を搾り出してしまう。 「承知しました。任せてください」 私は精一杯、力強く言った。この店を『失恋喫茶店』にするわけにはいかない。そこへ洋子の夫の恵司がトイレから帰ってきた。 「ねえ、もう一度考え直して」 「またその話か。もう結論は出てるよ」 「話し合う必要があると思うの。私はまだ納得してないし…」 「ダメだよ。おまえにコースケがいる以上、僕にはやり直す自信がない」 私の耳に新しい人物の名前が飛び込んできた。コースケなる男と彼ら夫婦が三角関係になってしまったのだろうか。たとえ、過ちがあったとしても、洋子のやり直したいという気持ちには真摯なものを感じた。断固として私はこの二人の関係修復に努めるつもりだ。 「コーちゃんのことを悪く言うのはやめて」 「マスター、アイスコーヒーはまだですか?」 恵司は洋子の言葉に答えない。 「ハイ。少々お待ちください」 先ほど私の分としてコーヒーメーカーに抽出されているコーヒーが残っている。私は氷をグラスに入れた。だが、これを出してしまったら、二人の仲もジ・エンドだ。 「なんで、そんなに毛嫌いするの? コーちゃんはあなたのこと好きよ」 「そんなわけないって」 「ううん。絶対に好き。マスターもそう思いますよね?」 突然、洋子に振られて私は反射的にうなずく。 「えっ、ええ……」 「ほらっ。マスターも同意してくれてるわ?」 恵司が私を非難する目で見る。 「マスターはコースケがどんなヤツか知らないから、無責任なことを言えるんです」 行きがかり上、私もここで退くわけにはいかない。 「いいえ、お互いに誤解もあるのではないでしょうか」 「そうよねマスター。ハイ」 洋子が私の手にテニスボール大の黒い球を渡してきた。 「何ですか。これは…?」 「コーちゃんよ」 「えっ…?」 驚く私の手の上で黒いボールはモゾモゾと動き出す。やがて球形はほぐれて、20センチほどの一本の黒い帯になった。その生きている帯は、無数の足をうごめかしている。 「うっ、うっわああー!」 たまらずに私は悲鳴をあげた。 「コースケ君でーす。マスターにこんにちはって」 「いえ、あの…これは……」 「タンザニアオオヤスデ。ウチの大事な家族の一員です」 オオヤスデは私の腕を伝って登ってこようとしている。生き物に対する偏見は持ちたくないが、こういう類のペットへの免疫のない私も"コースケ"と同居は難しい。 「取って…これを取ってください」 私は腕を洋子の方に差し出す。 「あれ? マスターはさっきコースケのことを支持してましたよね」 恵司が不審そうに言った。確かに私は洋子の味方をすると宣言した。洋子はすがるような目で私を見つめている。仕方がない。彼女達夫婦の絆を取り戻すためだ。 「そうです…とも。カワイイですねえ」 私は上腕部に移動した"コースケ"の背中(?)を優しく撫でた。硬質な感触だが、嫌な感じはしない。そのとき、店の入り口が開いて、年配の女性達がどやどやと現れた。 「ここのお珈琲は絶品でございますのよ」 「先生は本当に美味しいお店をよくご存知ですわね」 生け花か日本舞踊、あるいは茶道教室の帰りなのか、六、七人の女性全員が和服姿だ。 「い…いらっしゃいませ」 私は急いで彼女たちのテーブル席までお冷を運ぶ。サービス業の基本は迅速な接客である。 「あらっ。店長さん、いいブレスレットして……」 彼女達の視線が私の腕の一点に集中した。すると、おとなしくしていた"コースケ"が再び、私の腕の上で動き出す。 「きゃあー、きゃっきゃあああ!」 店中に響き渡る悲鳴の和音。和服の裾がひらめくのも構わず、彼女達はわれ先にと店から飛び出していった。私はため息をつくと、生きたブレスレットを洋子に返す。 「すみません。なんかお客さんをビックリさせちゃったみたいで…」 恐縮して洋子が謝る。もちろん彼女の責任ではないが、私の中には本来の店主である沢井に対して申し訳ない気持ちがあった。常連客を減らしてしまったのである。 「あ、マスター。お客さんですよ」 恵司の指摘で私は入り口を振り返る。そこには品の良い初老の婦人がニコニコして立っていた。 「こんにちは。個室は空いてますか?」 私は緊張感で背筋を伸ばす。 「あの……宮古様ですか?」 「はい」 時刻は十一時半。ついに個室の客である宮古が現れた。 「空いております、どうぞ」 「では、いつものをお願いしますね」 宮古は優雅に会釈をすると奥の個室へと姿を消した。そもそも私が慣れない臨時マスターをこなしているのは、彼女に美味いコーヒーを一杯提供することが主目的だ。二十年間続けられてきた、変わらない日常を途切れさせないためである。私は腕によりをかけてアメリカンコーヒーを煎れると、個室へと運ぶ。 「失礼します」 室内では、眼鏡をかけた宮古が歴史小説の単行本を読んでいた。 「いつもありがとうございますね」 「いえ、こちらこそ」 失敗は許されない。私の全身は硬直してしまいそうに緊張している。だが、ソーサーと共にコーヒーカップを置こうとしたとき、宮古が不審そうに言った。 「いつもと違いますねえ」 「えっ……」 「いつものをお願いできないでしょうか。毎日楽しみにしておりますので」 宮古に笑顔で言われると、私はどぎまぎしてしまった。 「ハ…ハイ。ただ今……お持ちします」 早々に個室を退散する。しかし、彼女の言う"いつもの"とは何を指すのだろう。アメリカンではないのか。それともコーヒー豆が違うのか。いずれにせよ、私に結論を出せるわけもない。宮古と二十年間つきあってきた沢井でなければわからないはずだ。店内に戻ると、カウンター席には新たな客が一人増えていた。 「おう、マスター。待ちかねましたぞ」 私に呼びかけた新しい客は、まるでシンガポールかバンコクのホテルのバーで見かけるような格好だった。短く刈り上げた頭髪は金色で、口髭を生やし、サファリルックでカウンターに座っている。 「お忘れですか。伊佐鎌倉大学の篠山です。先週も古代シブヤ文明の話で盛り上がったじゃありませんか」 「いえ、私は今ちょっと臨時で……」 「構いません。ところで先日のお話は考えていただけましたかな」 「何のお話でしょうか」 「こちらのお店の名前を『シブヤ文明』にするという話ですよ」 本来のマスターである沢井は、そんなことを請合ったのだろうか。 「まだ決心は固まりませんか? 本日は私の学説が正しいことを裏付ける新たな証拠が見つかったので、ご注進に及んだ次第です」 篠山は興奮しているが、私にはまったく興味も権限もない話である。いずれにしろ、今は宮古の飲み物の好みを確認するために、二階の沢井に会わなければならない。 「ご注文は何になさいますか?」 「ジンジャーエールをいただこう。今日は祝杯をあげてもいいくらいだ」 篠山は見えないドラムを叩くかのように手をリズミカルに動かしている。 「古代シブヤ文明って何ですか?」 聞き慣れない単語に興味を惹かれたのか、恵司が口を挟んできた。ふと私の頭に名案が閃く。彼を篠山との会話に引きずり込めば、さらに洋子の望む時間が増えるというものだ。 「篠山先生、ここはひとつ講義をしていただけないでしょうか」 私の提案に篠山の目が輝いた。 「おお。真実を求める同志よ」 話し相手が出来たことに喜びを隠せない篠山は満面の笑顔で言った。 「すべての道はシブヤに通ずる!」 |
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