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「石岡君、バレンタインにチョコを贈る」 4 優木麥 |
| 「あの号が出た頃は本当に最悪でした。編集長から何から、みんな潰れる舟から逃げ出すように、次の転職先探しに奔走している時期でしたからね。ゲラの校正なんてまともにやっていなかったんです。それで、あんなことになりまして…」 頭を下げる曽田に私は尋ねる。 「曽田君、ぼくはその号を手にしていないと思う。だから、いま君の言っている〃あんなこと〃の意味がわからないんだけど」 「そうでしたか。申し訳ありませんでした。とっくにご存知だと思っていましたので。実は、あの『体育会系第3惑星』の第4号の人生相談コーナーは、質問と回答がひとつずつズレて誌面に載ってしまったんです」 「ええっ!」 私は思わず声を上げていた。初めて知る事実である。 「つまり、ぼくが回答した内容が、一段下の相談者の悩みに答えた形で発表されたってことだよね」 「そうなんです。まことに申し訳ございません。何か不具合がございましたでしょうか」 「いや、不具合って言うか…」 ようやく私は謎が解けた。真吾の質問に答えた覚えがなかった私は正しかったのだ。つまり、本来、私が「短距離走者の悩み」に答えたはずの回答が、誌面ではすぐ下の段だった真吾の「試合への不安の悩み」に答えた形になってしまったのである。 「お願いします。その号を手に入れてもらえませんか」 とにかく、実際の誌面を見なければ話にならない。 「わかりました。何とかしてみます」 「できれば14日までに」 「14日と言いますと、バレンタインデーまでにですね」 曽田の言葉に私は反論した。 「違います。打倒バレンタインの日です」 「え、はい…」 曽田は私の言葉に面食らったようだった。私は思い出した。 「よかったらこれを受け取って欲しいんだけど」 打倒バレンタインキャンペーンのために真吾が作った特製チョコを曽田に手渡す。千人の人に渡すという真吾の願かけに協力するのだ。作った本人はボクシンググラブをデザインしたらしいが、どうしてもハート型に見える。表にはホワイトチョコで「LOVE」と浮き出ていた。自分が手にしたチョコを見た曽田は私がビックリするほどうろたえている。 「石岡先生、こ、これは、一体……」 「スウィートハニーのためなんだ。協力してください」 私の言葉に曽田は口を大きく開けて言葉を出せない。どうも誤解があるようなので、私はキチンと説明しようと思った。 「ボク……LOVEだから」 本当は「ボクシングLOVE」と言いたかったのだが、慣れない言葉を口にしようとして少しむせてしまった。曽田はソファからずり落ちている。 「どうしたの、曽田君」 「あ、あ、あの……石岡先生、あのウワサは本当だったんですね」 「ウワサ?」 「え、いえ、私はそういうご趣味に対して何の偏見も持ちませんが、私自身がどうかといいますと、それはまた別の話でございまして……」 「何の話をしているの?」 青ざめている曽田の心意がさっぱりわからない。 「す、すみません。失礼いたします」 曽田はカバンを掴むと、脱兎の如く部屋を駆け出していった。 ● ついに試合の日がやってきた。2月14日、横浜文化体育館。世界ライトヘビー級のタイトルマッチ。王者ジャグラー・バレンタインに、スウィートハニー真吾が挑むのだ。1週間前の公開スパーリング後の記者会見でチャンピオンのジャグラーは「今回の試合は、日本観光のついでのアルバイトのようなもの。春に式を挙げるフィアンセも同伴している。オレにとっての本物のスウィートハニーだ。ニセモノのスウィートハニーには消えてもらおう」と余裕の発言をしている。一方、真吾は「エクレアで勝ちます」と言葉短く答えたらしい。記者たちには意味がわからなかったらしく、その発言を報じた新聞の多くは「好雲堂で人気のエクレアを食べて力をつける」というニュアンスで記事を書いていた。 「いよいよですね。石岡先生」 控え室で好井から肩のマッサージを受けながら、真吾は言った。私も好雲ジムのジャージに身を包んでいる。朝から軽い興奮状態だった。好井がしきりに真吾の気持ちを煽り立てる。 「やるべきことは全てやってきた。おまえなら勝てる。自分を信じろよ」 ドアがノックされる。ついに真吾の入場の時間なのだ。 「石岡先生」 真吾が私を振り向いた。その目には大一番を前にした男の期待と不安が入り混じっていた。 「なんだい」 「あの言葉をもう一回、言ってください」 「えっ、あの言葉?」 「2年前、雑誌でオレを励ましてくれた、あの言葉を。もう一回聞きたいんです。先生の口から直接…。お願いします」 私は口から心臓が飛び出そうになる。結局、今日まで「体育会系第3惑星」の第4号は手に入らなかった。何度も曽田に連絡を取ろうとしたが、どういうわけかあれほどひんぱんに電話してきた彼がまったく音信不通になったのだ。編集部の誰かにコールバックを頼んでも、返信はなかった。2年前の私は、誌面で彼に何を言ったことになっているのだろう。思い出そうとしても無理だった。室内の全員が私を注視していた。世界タイトルマッチを目前に控えた選手が頼んでいるのである。とても、いい加減な言葉で誤魔化せる状況ではない。私は息を小さく吸った。両手が震えている。 「あ、あのときの……ボクシングを辞めようと思っていた君にかけた言葉は、こんな……世界チャンピオンまであと一歩の君には、ふさわしくないよ」 私の言葉の一語も聞き漏らすまいと、食い入るように真吾が見ている。 「だから……今のぼくの言葉で応援させてほしい」 真吾の視線を受け止めて、私は叫んだ。 「エクレアで勝って、エクレアを食べるんだ!」 震える拳を突き上げる私に、真吾は「ハイ」と大きくうなずいた。 「よっしゃ、行くぞ。みんなー!」 会長の好井の合図でドアが開けられる。大歓声と入場テーマが鳴り響く中を、真吾は堂々と花道を歩いていった。 ● 「真吾、やれるのか。まだ大丈夫か」 椅子に座る真吾の耳元で好井が怒鳴る。トレーナーはすぐに彼のトランクスのヒモを緩めて、呼吸をラクにする。 「次のラウンドも戦えるなら、マウスピースを出せ」 ためらうこともなく真吾は口に含んでいたマウスピース(歯や頬の内側などを保護するための防護器具)を取り出した。彼の唇から血が流れ、左目の上は大きく腫れている。ほんの三十分前の控え室のときの彼の顔とは、まるで別人だった。 「石岡先生、お願いします」 好井がマウスピースを私に手渡す。すぐに私はペットボトルの水をマウスピースにかけて洗浄する。試合は5ラウンドが終了したが、素人である私の目にも真吾の劣勢は明らかである。いや、圧倒的に押されていると言っていい。以前、好井が不安視していたように、チャンピオンのジャグラーは強かった。血気盛んに攻める真吾の顔にカウンターパンチをコツコツと当てて確実にダメージを蓄積していた。またエクレア、つまり得意の左アッパーさえ右のショートフックによってほとんど封じられている。ラウンドが進むにつれて、挑戦者側のコーナーは沈うつなムードに支配されていく。 「もっと氷を持って来い。腫れをなくさないと、ドクターストップで負けちまう」 好井がセコンドに怒鳴っている。同じセコンドという大役を仰せつかりながら、私にできることはマウスピースを洗うことだけだった。あとは、ただその場にいてオロオロするだけである。むしろプロの職場にいて、邪魔になっている。 「せんせ…いしおか先生…」 真吾が私を呼んでいた。すぐに私は彼の側に駆け寄る。真吾の顔は正視できる状態ではなかった。しかし、絶対に彼の現実から目をそらしてはいけないと思う。 「ゴメンね。オレ、カッコ悪くて…」 真吾は泣きそうな顔で私に謝った。 「なに言ってるんだよ。まだ試合中じゃないか。これからだって」 私は怒鳴るように励ます。そうしないと自分の気持ちが耐えられないからだ。これ以上、真吾に戦えと後押しすることが本当に正しいことかわからない。でも、真吾が戦う意思を見せている間は、私も弱気になるわけにはいかない。 「やっぱり強いなあ、世界チャンピオンだもんなあ」 「なにを言ってるんだ、真吾」 私はたまらずに彼を呼び捨てにする。 「オレ、また気持ちが負けそうなんだ。先生、やっぱりあの言葉を言ってほしいよ」 真吾の言葉に私は胸をえぐられた気分になる。どうすればいいのかわからない。もう彼が望んでいる言葉を試合中に言ってやることはできないのだ。本音を言えば泣き出したいくらいだ。でも、戦っているのは真吾なのである。 「情けないことを言ってはダメだよ」 私は真吾の肩を掴んで揺さぶる。 「リングに膝を着くまでは負けじゃないんだろ。まだ君はダウンしてないじゃないか」 「でも、オレ……あの言葉を先生に言って欲しいんだ。お願いだよ」 懇願する真吾の表情に私は泣き叫びたくなった。私は、命懸けで闘っている男の期待に応えることができないのだ。もう限界である。あのときの相談は違うのだと彼に伝えるしかないのかもしれない。いつまでも幻想にすがっている真吾を見ているのは耐えられない。そう思った瞬間、私を呼ぶ声がした。 「石岡先生、石岡先生!」 声の方角を見ると、そこには曽田がいた。リングサイドに張り巡らされたフェンスの前まで来て私を手招いている。即座に私はリングを降りて駆け寄った。 「すみません。石岡先生。私は誤解していました。ようやく入手できた『体育会系第3惑星』の相談コーナーを見てわかったんです。先生はスウィートハニー真吾のために、このバックナンバーを探していたんですね。だから、今日のこの試合会場に先生がいるんだと思って飛んできました」 「ありがとう」 「これ、そのページのコピーです」 私は曽田に手渡された紙片を食い入るように見つめた。 オレはプロになって5年目のボクサーなんですけど、最近試合に出るのが怖くなりました。勝てる気がしないんです。どうすればいいでしょうか? (スウィートハニー真吾) この相談に対して、私はどう回答しているのか。短距離走の選手の相談に答えているのだが、うまくかみ合っているのだろうか。 あなたは勝てます。勝負の最中にアリを見つけることが出来たら、あなたの勝ちです。 (石岡和己) 私は愕然とした。ようやく思い出した。この回答は短距離走で勝てない選手の相談に対して、宮本武蔵の「勝負の最中にアリを見つけることができればそなたの勝ちだ」と言って決闘する年少者を勇気付けたというエピソードから引用したものだ。アリを見つけるというのは、単なる象徴に過ぎず、それだけ落ち着いた平常心で勝負に臨めば必勝であるというアドバイスである。だが、この言葉が今の真吾の状況にどう影響を与えられるだろうか。彼が戦っているのは、グラウンドではなくリングの上である。アリを見つけるなんて百パーセント不可能な話だろう。 「セコンドアウト」 6ラウンドが始まろうとしている。もう私に迷う時間はない。叫ぶしかない。彼が望んでいた言葉を叫ぶことが、私にできる精一杯の行為なのだ。 「真吾君、君は勝てる。アリを見つけることが出来たら、君の勝ちなんだ!」 私の叫びに真吾がこちらを振り向いて、グラブを掲げて見せた。もう何でもいい。彼の気持ちに1パーセントでも力を与えることができれば、それで本望だ。そう願いながら、私は6ラウンド目のリングを見つめていた。すると、今までの試合内容とはまるで違う勝負がそこに展開されている。手を出してはカウンターを食らわされていた真吾が、両手をダラリと下げ、両足をリズミカルに交差させて、ジャグラーの周りを回りだしたのだ。 「アリ・シャッフル…」 好井がつぶやいた。私はすかさず彼に尋ねる。 「何ですか。アリ…?」 「カリスマを誇ったヘビー級のチャンピオン、モハメド・アリのフットワークです。蝶のように舞い、蜂のように刺すと表現された伝説的なスタイル。あの体調の真吾がよもやそれを再現するとは…」 「アリのように…ですか」 私は感動していた。真吾はリングの上でアリを見つけたのである。好井が興奮気味につぶやいていた。 「もしかしたら、やれるかもしれない。今までのオーソドックスなスタイルと違って、チャンピオンはリズムを崩されている」 好井の言葉通り、スタイルの変わった真吾のフットワークと、ノーガード戦法にジャグラーの手が止まった。真吾は玉砕覚悟で王者に突っ込んでいく。そのがむしゃらなフックの嵐が、ついにジャグラーのガードを崩した。そこへ、狙いすました真吾の左アッパーが炸裂する。 「やったー、エクレアー!」 私は拳を突き上げて叫んでいた。無敵のジャグラーがリングに倒れ込む。カウントが進んだ。 「……エイト、ナイン、テン!」 レフェリーはゴングを要請する。奇跡は起きた。真吾が逆転勝利を収めたのだ。会場内が爆発的な歓声に包まれた。好井も、私もリングに上がっていた。涙が次から次へ流れて私はレフェリーに手を挙げられる真吾の姿がよく見えない。 「石岡先生、オレ勝ったよ」 「うん、うん」 私は流れる涙を止められないまま、ただただうなずいた。 「先生のおかげだよ。ありがとね」 私は首を激しく横に振る。何も出来なかった。今日勝てたのは、彼自身の力だ。 「石岡先生…」 「なんだい」 「チョコが食いたい」 真吾が微笑む。私も泣き笑いの顔でポケットに手を入れる。そこには、真吾が作った特製チョコがあった。 「おめでとう、チャンピオン」 私の手渡したチョコを真吾が嬉しそうに齧る。2月14日、バレンタインデーに、私は男にチョコを贈ってしまったようだ。 |
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