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「石岡君、護身術を習う」1 優木麥 |
| 確かに命は取られなかった。ケガもしていない。尻餅はついたが、ちょっとお尻が痛む程度だ。被害総額1920円。バッグの中に財布が入っていなかったのは、不幸中の幸いだった。私はつねに財布をコートかジャンパーのポケットに入れているので助かったのだ。では、何が被害だったのかといえば、買ったばかりの文庫本2冊と、近所のレンタルビデオショップの回数券が3枚分。経済的にはそれほどでもないが、精神的には大打撃を食らった。 「どうしたの? 石岡先生」 待ち合わせ場所の喫茶店に現れた私の姿を見て、里美は心配そうに言った。 「引ったくりに遭ったんだよ…」 私は事実を言うしかない。この喫茶店に来る途中の路地で、歩いているところを後ろから来たスクーターの人物にバッグを取られたのだ。アッという間の出来事だった。 「え、……ケガはない?」 里美の顔が蒼白になる。私は安心させるように笑みを浮かべてうなずいた。 「大丈夫。ちょっと尻餅をついただけ……」 「手を変な形で着いたら、骨折とか、ヒビが入ったりするのよ。お医者さんに診てもらったほうがいいんじゃない?」 「いや、本当に問題ないと思う」 「ヒドイヤツがいるのね。石岡先生を突き飛ばすなんて」 里美は憤慨しているが、私は自分でよろけて転んだなんて言い出せなかった。 「犯人は、オトコなの?」 「いや、よくわからないんだよ」 「どうして?」 「何しろ一瞬の出来事だったからね」 自分のバッグが取られたことを認識するまで数秒かかったし、通り過ぎていくスクーターの人物が引ったくり犯だと理解するまでさらに数秒かかっている。チラッと目にした後姿だけではとても老若男女の区別はつかない。あえて断言できるのは、犯人は人間だったことぐらいだ。 「さ、財布は? 石岡先生」 突然、里美が大声を出した。私のほうがビックリする。 「カードとか入ってたら、悪用されるのよ」 「いや、財布ならここにあるから」 私はポケットから財布を取り出して里美を安心させる。しかし、一度火が着いた彼女の興奮は収まらない。 「じゃあ、バッグの中身は何が入ってたの?」 「レンタルビデオのチケットや、文庫本と、あとは……」 「先生の身分を証明するようなモノはないのね?」 「うん。そういうモノはない。ただ……」 私が口を濁すと、すかさず里美は突っ込んでくる。 「どうしたの? まさか、原稿を保存したフロッピーがあったとか」 「いや、そんなことはない」 「じゃあ、何なの」 「取られたバッグなんだけど……」 「高い物なのね」 「いや、記念品なんだ」 「思い出の品って、じゃあ大変じゃない」 「まあ、記念と言っても、出版社の忘年会のビンゴで当たった記念品だけど……」 「……とにかく、警察が早く見つけてくれるといいわね」 「いや、それは難しいと思うよ」 「どうして?」 「だって、警察に届けてないから」 一瞬黙った里美は、身を乗り出して私に怒鳴る。 「ダメじゃない、それじゃあ。早く被害届を出しましょう」 ● 「石岡先生、引ったくりに遭われたとか」 実際に被害に遭った数日後に、つきあいのある雑誌編集者から電話が入った。この手のマイナス情報は、どうして知れ渡るのが早いのだろう。私がテイスティングをして、紅茶のブランドをいくつか当てたときは、自分でも誇らしかったのだが、まったくその後の話題に上らなかった。 「申し訳ございません。今日まで存じなかったものですから、お見舞いも差し上げませんで」 「いえいえ、そんな大げさな……」 1920円を取られて、尻餅をついたぐらいでお見舞いをもらえるのなら、毎日そんな目に遭ってもいい。 「しかし、ナイフを持った暴漢に囲まれて、よくぞかすり傷程度で済みましたね」 「えっ……?」 私は別の話題に変わったのかと思った。だが、編集者の沢野は、しきりに私が無事だったこと奇跡だと強調する。 「ミステリー執筆で磨かれた機知を働かせて、急場を切り抜けたわけですね」 「あの……実は…」 「風のウワサで耳にしたのですが、バッグの中には50万円相当の貴重品や、未発表の原稿フロッピーまで入っていたそうじゃないですか」 あまりに飛躍した話に私はついていけない。だが、その与太話の主人公は、どうやら私のようなのだ。 「石岡先生、聞こえておられますか?」 「え、ええ……」 「あ、すみません。落胆されている話を蒸し返すようなことをしまして。いえ、実はおでんを差し上げたのは、もうひとつ理由があるのです」 沢野が説明したのは、雑誌で企画を組むから、護身術を学んだらどうかという提案だった。 「言ってみれば石岡先生は、日本ミステリー界の至宝。そんな方に万が一のことがあっては、重大な損失になります」 「そんなことはありませんが……」 「今の日本は本当に物騒な世の中になりましたからね。石岡先生のようなセレブレティは用心して、しすぎることはないはずです」 「しかし、ですね……」 「今回はたまたま100万円程度で済みましたけど、次回はどうなるかわかりませんよ」 沢野は不安を煽るように言った。 「下手をすれば、命まで落としかねない。いや、落としても不思議ではないです」 「そんな縁起でもない事を言わないでよ」 「石岡先生のためを思えばこそです。どうか、世の中を救うと思って、ご自身の身を守ることをお考えください」 とてもそんな身のほど知らずな心境にはなれなかったが、沢野の言葉に気になることがあったのも事実だ。私はセレブレティうんぬんではないが、日常生活をしていて暴漢に襲われる場面はゼロではない。実際、数日前は被害者になっているのだ。あのときのように茫然自失となっていては、命に関わるトラブルにつながっていくだろう。その危険をわずかでも減らす意味で、護身術を習うことは選択肢のひとつだ。 「ぼくでもできるのかなあ」 私の口調のニュアンスが肯定的になったのを感じた沢野は、ここぞとばかりに畳みかけてくる。 「誰にでもできるから護身術ですよ。老人にも、女性にも、むしろそのような肉体的な弱者のためにあるのが護身術じゃないですか」 沢野にそう言われて、私はその気になってきた。 「じゃあ、やってみようかな」 気軽にそう返事をしたことが、後になって後悔のタネとなる。 |
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