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「石岡君、生命保険を選ぶ」1 優木麥 |
| 「ヤシガニはサルカニ合戦に出てくるカニではありえないと思います」 浦木が机を叩かんばかりの口調でそう言った。私は「なるほど」と曖昧にうなずく。否定する気はない。いや、正直に言って、サルカニ合戦に出てくるカニの種類など考えたことはない。しかし、浦木はまるで論敵に挑むように自己の主張を続ける。 「ヤシガニは木に登れるからです。いかに性悪のサルが柿の木に登って挑発したとて、ヤシガニも同様に登って実を食べることができるんですよ」 「なるほど」 私はさきほどの感想をくり返した。サンバイザーにタンクトップ姿の白人女性が、口髭を生やした若い日本人の男と腕を組んで歩いていく。目の前を流れる多種多様な髪と肌の色の人々を見ると、日本の風景でない錯覚を覚える。この六本木のオープンカフェに入ったのは、浦木に誘われたからだ。巷では「シアトル系カフェ」と称するらしい。アメリカのシアトルから発祥したカフェチェーンで、主にエスプレッソタイプのコーヒーを中心にしたメニューの構成が売りだ。しかし、私自身はコーヒーより紅茶を好むため、数少ない「コーヒー」以外の飲み物を頼んでいる。そのテーブルの上のアイスティーも2杯目。浦木の自説を聞き始めてすでに2時間が経過した。私にとっては非常にどうでもいい話だが、彼は民話の「サルカニ合戦」に異様な執着を抱いているようだ。 「カニの復讐に力を貸した蜂はスズメバチで決まりでしょうね。性悪のサルを刺したのがミツバチであれば、それはまさに身を滅ぼす行為。なぜならミツバチの針は産卵管が変化したものだからです。当然、針を何度も使用することは出来ません。一度刺すと相手の体内にひっかかって針が抜けなくなります。その点、スズメバチなら攻撃用の針を何度も刺すことができるのです」 「そうですか」 「身を滅ぼすといえば、栗の行為は不可解です。なにしろ、囲炉裏の灰の中に潜って、真っ赤になって性悪のサルの尻に突っ込むんですよ。そこまで熱が通ったら、完全に焼き栗状態じゃないですか。よく生きてられるものだと不思議でしょう?」 浦木に問いかけられても、私には答えようがない。物語の中で栗に命があって、生き物のように行動していること自体が不思議なのだから、細かいことは気にならないのだ。 「それにしても、石岡先生とはほんの数時間前にお会いしたばかりなのに、こんなに話が弾むとは思いませんでしたよ」 無邪気に浦木は喜んでいるが、私はこのカフェに入ってからほとんど相槌しか打っていない。確かに彼と出会ったのは、3時間ほど前だ。 東京都内に来るのは久しぶりだった。六本木なら何年ぶりだろう。以前からつきあいのあった出版社が六本木の新社屋に移転したため、そんな機会でもなければ六本木には足を踏み入れないので、今日は重い腰を上げた。しかし、担当編集者が急に子供が熱を出したということで、仕事の打ち合わせのみでランチは一人で摂ることになったのだ。用事が済んだら勝手知ったる横浜に戻ってもよかったが、せっかくなので六本木の店に入ることにした。ところが、適当な店が見つからない。「ステーキランチ 3500円」とか、「シェフのおまかせランチ2500円」など、とても私が一食にかける予算内で納まる金額ではない。表通りの飲食店だからかもしれないが、土地勘のない私には庶民的な価格の店を探す器量はない。安そうなお店は、どこも十人以上の行列が出来ていた。私は美味いと評判のラーメンなら並ぶことも厭わないが、ミックスフライランチにありつくために並ぶのは御免こうもる。なぜなら、ランチタイムとラッシュアワーを避けることができるのが、自由業を選んだささやかな特権だからだ。仕方なく、横浜に帰ろうとあきらめかけたとき、ひょいと目にした路地の定食屋のミニ黒板に「日替わりランチ エビフライ定食 650円」とある。これは天の恵みか。私は小躍りしたくなった。メニューも、金額も申し分ない。ましてや、それだけ魅力的な条件なのに順番待ちをしている客もいない。いざ参ろう。 「こんにちは」 私は引き戸を開けて店内に入った。その瞬間、お客が行列を作っていない理由がよくわかった。店内には二つのテーブルとカウンターしかない。そのひとつに座ってスポーツ新聞を広げていた店主らしき男が気だるそうに答えた。 「へい、いらっしゃい」 「ど、どうも…一人です」 洗練を売りにする六本木の他店の喧騒は苦手だが、閑古鳥のなく店内で店主と一対一になるのはもっと気が重い。私は示された席に座ると「日替わりランチをお願いします」と注文した。店主がお冷を置いていくときに「ウチはアルカリイオン水を使ってるから」と笑顔で言う。私は「そうですか」と強張った頬で笑った。カウンターの向こう側の厨房に入った店主はエプロンを着ける。私はこの気まずい雰囲気を打破するために、誰か他の客が来てくれないかと願っていた。 するとガラガラと引き戸が開いて若いサラリーマンが入ってくる。 「マスター、和風ハンバーグちょうだい」 「あいよ」 若者は真っ先に浄水器に向かい、自分でコップにアルカリイオン水を注ぐ。そして店内を見回すと、私と目が合った。 「ここ相席いいですか?」 「あ、はい。どうぞ」 一瞬、二人しか客がいないのに相席か、と思ったが考え直した。ランチタイムはまだ続いている。これから先、団体客が訪れる可能性があるのに、一人客の私は四人がけのテーブル席を占領しているのだ。店内の限られたスペースを有効に活用しなければならない。常連客らしいこの若者は店に配慮したのだろう。 「僕は浦木と言います」 席に着くなり、若者は歯を見せながらそう名乗った。面食らいながらも私は「石岡と言います」と答える。 「ここの和風ハンバーグは絶品ですよ。もう試されました?」 「いいえ、ぼくは今日が初めてで……」 人懐っこい性格なのか、浦木が会話を止めない。 「だったら試してみてください。ハンバーグの上の目玉焼きがキッチリとサニーサイドアップでいい仕事をしてるんです」 「サニーサイド……?」 「目玉焼きのいわゆる片面焼きですよ。黄身が半熟状態の目玉焼き。海外ではターンオーバーと呼ばれる両面焼きの目玉焼きが多くて、卵の素材としての旨みがいまいち。私はこの店で和風ハンバーグランチを食べられるときには、日本人に生まれた喜びをかみしめますね」 多少大げさな気もするが、浦木は本当に嬉しそうだった。そのとき、再び入り口が開けられ、新たなお客が入ってくる。スーツ姿の若い女性だ。 「こんにちは。和風ハンバーグランチください」 和風ハンバーグランチの人気は高いようだが、三人のうち二人が頼んでいるだけなので、確かなことは言えない。 「マスター、目玉焼きは固焼きでお願いね。私、黄身がドロッと出る目玉焼きは安全性からも舌触りからも許せないの」 「あいよ」 彼女の追加注文の言葉に、笑顔だった浦木の表情が一転して曇る。さきほど雄弁に語った自身の「半熟目玉焼き最高論」に異を唱える存在が現れたのだ。浦木と同様、セルフサービスでお冷を手にした彼女は、私達のテーブルへとやってきた。 「相席よろしいでしょうか」 「どうぞ」 返事をしたのは私だけだった。浦木は週刊誌に目を落として顔も上げない。しかし、彼女はそんな態度を意に介さず、会釈して席に座る。 「はい、お待ち」 数分後に料理が運ばれてきた。三番目の彼女の分まで一緒だった。浦木と彼女はお互いのハンバーグの上に載る目玉焼きの違いに目をやる。そして、瞬間的にぶつかった視線は激しく火花を散らした。間に挟まれる私は緊張感に包まれている。しかし、二人とも大人だ。最初に折れたのは女性のほうだった。彼女の口から意外な言葉が出た。 「ソース取ってもらえますか」 調味料の載った籠は、彼女の位置からは遠いのだ。浦木は無言で黒い液体の入った小ビンを手渡す。礼を言って自分の目玉焼きに黒い液体を注いだ女性は大声で叫んだ。 「な、なんなの、これ」 「どうしたんですか?」 私は事態が把握できていない。 「醤油じゃないの」 浦木が手渡したのは、ソースではなく醤油だったのだ。同じような小ビンに入っているため、見た目ではなかなか判断できない。女性は浦木をきっと睨む。 「わざとね。私はソースって言ったのに」 「えっ、そうなの。すみませんね。てっきりソイソースのことだと思ったので」 浦木は涼しい顔でとぼけている。ソイソース、つまり醤油の英語だ。 「どうしてくれるのよ。私は固焼きの目玉焼きにソースをかけるって決めてるの」 「それは目玉焼きの美味さを知らない可哀想な人の食べ方だね」 「なんですって」 「まあまあ、ちょっと落ち着いてください」 今にも掴みかかりそうな女性を私はなだめる。 「石岡さんはどうなんです。僕と同じで、片面焼きに醤油を垂らして召し上がるんですよね?」 浦木が私に同意を求める。目玉焼きの調理法ひとつで、とんでもない事態に発展しそうだった。 |
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