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「石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす」2 優木麥 |
| 香水の香りが鼻をつく。私と腕を組む女性から漂うその匂いは、さわやかとか、ほんのりと形容するより、濃いのひと言に尽きた。耐えられずに私はむせてしまう。 「大丈夫? ちょっと止まって」 女は私の背中をさすった。顔を近づけられると、さらに強い香水の芳香を浴びせられ、私は咳き込む。 「今日はスギ花粉が多く飛ぶって言ってたからねえ」 「いえ、花粉症ではないんですけど……」 「わかんないんだって。去年までそうじゃなかった人が、突然なっちゃうものらしいわよ。花粉症って」 彼女自身が私のむせる理由であることを告げるべきか否か一瞬だけ迷うが、やはりやめることにする。 「ハンケチ使う?」 「あ、結構です。ありがとう」 私は自然と彼女から距離を置く。顔の半分を覆う大きなスカーフ、白いブラウスに、皮のミニスカートと編みタイツ姿だ。 「なに見とれてんのよ」 「いえいえ、寒いかなあと思って」 私の体内に残留していたアルコールが急に吹き飛んでしまった気がする。 「私ね、アマミって言うのよ」 「あ、アマミさん……」 「そう。酸いも甘みも噛み分けた女だからさ」 アマミはシナを作りながらそう言った。 「で、でも生まれたときには、まだそんなことがわからないのに、ご両親はいい名前をつけてくれましたね」 「何を言ってるの、お兄さん」 声を上げてアマミが笑う。 「源氏名よ。営業用のお名前。面白い冗談を言うのね」 私がさりげなくアマミとの距離を開けても、彼女はススーッと近づいてくる。新宿駅で終電を逃してしまった以上、早くタクシーで帰宅したい。そのためには、ATMでお金を下ろす必要があるため、コンビニに向かう途中なのだ。アマミと会話を続けるのにふさわしい状況ではない。 「顔が男前で、話が面白い。あ、私は、あなたの正体がわかったわ」 アマミが言葉を切って、私に微笑む。 「正体なんて、そんな大層なものは……」 「もしかしたらお兄さん、ホストじゃないの」 「いや、違いますけど……」 「あら、じゃあ、お店に誘ってもいいのね。一緒に飲みましょうよ」 「それは先ほどお断りしたじゃないですか。ぼくは今、お店を探しているわけじゃなくて、もう帰る途中なんです」 「そうそう、まだお兄さんのお名前聞いてなかったじゃない」 私の帰宅途中の言葉は耳に入らなかったように、アマミは質問してくる。 「あ、すみません。石岡和己です」 「イッシーね」 「いえ、それは鹿児島県の池田湖で見かけられる、ネッシーみたいな未確認動物のことですか」 「お兄さん、ホントに面白いわ。その意味はよくわかんないんだけど。せっかくだから、一杯だけつきあってよイッシー」 「ごめんなさい。今日は時間がないんで、また今度ということで……」 「今度なんてないのよ。今夜という時間はねイッシー。今夜しかないの」 アマミの口調はほとんど叫びだった。 「明日とか、今度とか、いつかとか。そんな言葉で先送りにし続けたら、何も得られないわよ」 迫力を増したアマミの顔が私に迫ってくる。本能的に危機を察した私は、一歩どころか三歩下がった。 「あら、残念。奇襲キスしてあげようと思ったのに」 スカーフがはだけて、アマミの顔の下半分が覗く。何重にも紅を塗り重ねられたであろう唇はテカテカと真っ赤に輝いている。それにしても“奇襲キス”を狙うなんて、やはり歌舞伎町は油断も隙もない。 「要らないの? 奇襲キス」 「ぼくとしては、紀州ウメのほうがいいです」 「あら、お上手だけど、それは傷つくわねえ」 「とにかく、今日は遠慮しておきますので……」 「わかったわ」 「ホントですか。残念ですけど、それでは……」 「私が一杯おごるわ。それならいいでしょ?」 決してアマミは私を逃さないつもりだ。そのとき、私の携帯電話に着信がある。相手は石倉だった。さきほどまで彼と一緒に飲んでいたために、新宿に取り残される始末となったのである。 「もしもし、石岡です」 「石倉です。先生、すみませんでした」 まだ石倉の口調は正常時のそれではない。 「いや、気にしなくていいよ」 「先生は、まだ新宿にいらっしゃいますか?」 私の頭の中で警戒信号が点滅している。ここはうまく切り抜けないと、とんでもない事態に引きずり込まれるに違いない。 「うん、ただもう帰ろうとタクシーを探して……」 用心を怠らず、私は機先を制すように早口でそう言いかけたが、予期せぬちん入者のセリフに遮られた。 「ウソですよー。イッシーは飲みを続行中でーす」 いつのまにか忍び寄っていたアマミが、私の口元で怒鳴る。あわてて、彼女の身体を引き離した。 「ちょっと、アマミさん。やめてくださいよ」 「おお、石岡先生。まだまだお楽しみ中ですねー」 「違うんだよ」 否定すると即座に私は強引に話題を変える。 「無事に自宅に着いた?」 彼は川越に住んでいる。横浜在住の私とは新宿を挟んで南北に大きく離れているため、タクシーに同乗して帰るわけにはいかなかった。 「それなんですけど、家の手前までは来たところで、ハッと意識が戻りましてね」 「う、うん……」 今後こそ不穏な空気が流れてきた。 「運転手をどやしつけて、すぐさま歌舞伎町にUターンですわ」 「えっ、ええ?」 私は耳を疑った。石倉は私に比べて10倍以上の酒を飲んでいる。そのため、ろれつの回らぬ前後不覚に陥った彼を、苦労して帰宅のタクシーに乗せたのだ。恨みがましいことを言わせてもらえば、私が帰宅可能な時刻の電車に間に合わず、新宿駅で途方に暮れたのは、酔いつぶれた石倉の面倒見ていたからにほかならない。その石倉が、再び歌舞伎町を目指しているとはどういうことか。 「どうして。なんでまた歌舞伎町に?」 「言うまでもないでしょう。夜はまだまだこれからだからですよ」 石倉は能天気に騒いでいる。車内で大声を出された運転手は苦虫を噛み潰しているだろう。 「困るよ。ぼくはもう帰るつもりだし……」 戸惑っている私の隙に、アマミが携帯電話を奪い取る。 「ちょっとアマミさん。ダメだよ」 「お友達の方? 大丈夫。アマミが帰しませんから、早く来てねー」 すぐに奪い返したが、すでに通話を切られた後。 「アマミさん、困るよ」 私はすぐにリダイヤルするが、石倉につながらない。 「あらあら、これでイッシーも飲み明かすしかなくなったわね」 アマミが満面の笑顔を浮かべていた。私は冷や汗が出てきた。今夜は一体、どうなってしまうのだろうか。 |
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