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「石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす」8 優木麥 |
| 「石岡さん、ホテルに行こう…」 ほのかはもう一度言った。一瞬あっけにとられた私だが、即座に、断固とした意志を込めて答える。 「行かない。今度、そんなことを言ったら、ぼくは本気で怒るよ」 私は真剣に訴えかけた。ほのかは目をそらす。 「ふん、強がっちゃって。石岡さんは、稲垣重蔵の名前が怖いだけでしょ?」 「いや、こわいとか怖くないとかで考えたことないし……」 どちらかといえば、さっき路上で出会ったヤクザ風のサングラスの男のほうが恐怖の対象だ。 「結局、稲垣大先生の娘ってわけね。石岡さんだって、なんだかんだ言ってもそういう目でしか見ないじゃない」 私はできるだけ穏やかな口調で諭すように言った。 「そんなことはない。とらわれ過ぎてるのは、ほのかチャンだよ。お父さんを否定したって、君が幸せになるわけじゃないんだし」 年配者が若者に接するときの悪癖が、私の中にも存在していたことは、自分自身が驚いた。若輩者を未熟扱いして諭そうとする。ある種の快感を覚えることは否定しない。アルコールとは違った酩酊を感じて調子に乗った私は、どこかで聞いたような言葉を次々とほのかに浴びせる。 「20歳っていえば、もう立派な大人じゃないか。それなのに深夜まで徘徊して、お父さんを困らせようとしているうちは、いつまで経っても“稲垣重蔵の娘”に過ぎないよ。子供みたいなことはいい加減に卒業して……」 「エラそうなことを言わないでよ」 ほのかの目から幾筋もの涙が溢れる。 「父親が誰だろうと、ワクにはめられなきゃいけない理由はない。私が私でいてはいけない理由なんてないのよ」 両拳を振り上げて、彼女は絶叫した。周囲を歩いている若者たちが興味本位の視線をこちらに向けてくる。私は、つい説教めいた言葉を口にしたことを悔やんだ。泣きじゃくるほのかに対して、非力な自分が恨めしい。 「あの……ほのかチャン、ゴメン」 どう対処したらいいのか名案が浮かばず、とにかく、まず謝った。 「君の言うとおり、お父さんとの間には、ぼくがわからないことが一杯あると思う。……不快だったのなら、謝ります。ゴメンなさい」 私は誠意を見せるしかない。しかし、ほのかは私を睨んでいる。 「大人なのね石岡さん」 「一応、君のお父さんと同じぐらいの年だし……」 「そういう意味じゃないわ。皮肉で言ってるのよ、アタシは!」 目を剥いて怒鳴るほのかの顔が怖い。 「面倒くさいから謝ったんでしょ? 本心では、もうアタシのことをウザイと思ってるでしょ?」 「いや、そんなつもりは……」 「いいのよ。ぶっちゃけて言っても」 彼女の様子を見て、生半可な答えでは火に油を注ぐだけだと判断した。私はほのかから視線を外さずに答える。 「ウザいなんて思ってない。君の心を傷つけたのなら、それを回復っていうか、癒せるような償いをしたいと考えてる。さっきの警官との対応だって、大人のぼくがもう少し上手くやれば、わざわざほのかチャンがお父さんの名前を出す必要もなかったんだし」 ほのかはハンケチで涙を拭うと、鼻声で言った。 「じゃあ、私の言うことを聞いてくれる?」 「うん。いいよ」 私は即答する。このあと食事をする予定だったことを思い出す。この歌舞伎町には芸能人が御用達にしている高級焼肉店があると聞く。この際、ほのかの機嫌が直るのなら、少々の出費はやむをえないとまで覚悟した。 「焼肉でも何でも今夜は……」 「お父さんを連れてきて」 最初、私はほのかが言った意味を把握できなかった。 「えっ、ほのかチャン、いまなんて……」 「お父さんをこの歌舞伎町に連れてきてみせてよ。それが私のお願い。聞いてくれるって言ったよね?」 ほのかの目は真剣だった。冗談で言っている気配はない。 「いや……それはちょっと…」 さすがに私は渋い顔になる。その願いをかなえるまでの障害は、いくらでも湧いてくる。 まず、私は稲垣と知り合いではない。その時点ですでに呼び出す方法が皆無と言っていい。さらに、午前2時を回った時刻、歌舞伎町と次々と困難な条件が付帯する。こんな状況で有名政治家が現れるのなら、宅配ピザを頼むよりもハードルが低いだろう。 「意地悪はやめてくれよ。ほのかチャン。もっと現実的な……」 「やっぱり口だけじゃない」 ほのかが悲しそうな笑みを見せた。 「大人なんて、みんな同じよ。石岡さんも保身のことしか考えてないんだわ」 「待ってくれ。そんな一方的に言われても……」 「じゃあ、お父さんを連れてこれるの?」 ほのかは唇を尖らせて迫る。しかし、私にどうしろと言うのだろう。大人とか子供とか、信頼とか保身とかいう以前に、私が稲垣と面識を得ることさえ不可能だ。閉店準備で看板を閉まっている本屋に行ったとき、店員に悪くてどうしても欲しい本を購入できない、この私である。 「ゴメン、そんなことできないよ」 私は神妙な顔で言った。やれる自信が1%もないことを請合えない。無理なものを無理ということが誠実だと思う。 「もういいわ」 ほのかは吐き捨てるように言った。 「あのさ、もっと他のことなら……」 「もういいって言ってるのよーっ!」 叫びながらほのかは私を突き飛ばした。すごい勢いで後ろに尻餅をついた私の目の前を彼女は走り出す。振り向きもしなかった。 次の瞬間、信じられないことが起こる。今でも私自身は自分のしたことかどうかを疑っている。迷わず跳ね起きた私は、ほのかの背中を猛ダッシュで追いかけた。そのときの私の頭にあったのは、彼女をこのままにはしておけないという気持ちだけだ。 職安通りを50メートルも駆けた位置で、ほのかは走るのをやめた。とぼとぼと歩き始めたのだ。彼女は、暴言を吐いて突き飛ばした私が、必死で追いかけてくるなど、まったく予想していなかったに違いない。息を切らせながら、ほのかに追いついた私は、彼女の進路に立ち塞がる。 「い、石岡さん……」 ほのかの顔に予想外の驚きが表れる。まだ泣き続けていた。やはり、傷ついた彼女を放ってはおけない。 「な、なによ」 強気の表情を取り戻した彼女が怒鳴るが、私は今夜2度目の全力疾走によって心臓が恐ろしいほどのスピードで脈打っていた。胸に手を当て、腰をかがめて休まないと、とてもすぐに話せる状態ではない。 「勘弁してよ。ダサすぎるじゃない」 ほのかがあきれている。何を言われようと、今の私の口は酸素を吸うので精一杯だ。 「行くわよ。もう顔を見たくないから…」 私の横を通り過ぎようとする彼女に対して、かろうじてひと言、発することができた。 「連れてくるから」 いま聞いた言葉の意味を確認するように、ほのかは私の顔を見る。 「君のお父さんを連れてくるから」 全力疾走と同様、なぜ自分でこんな奇跡のような約束をしてしまったのか定かではない。理由のない高揚に踊っていたのかもしれない。しかし、ほのかを騙そうなんて気持ちは微塵もなかった。本気で稲垣重蔵を歌舞伎町に連れてこようと決めていた。 「そんなこと、できるわけないでしょ」 自分から要求しておきながら、ほのかは顔を歪めて怒鳴る。徐々に呼吸が整ってきた私は上体を起こすとニッと笑った。 「マイペンライ!!」 タイ語で「なんとかなるさ」という意味だと教えてくれたのは、ほのかだ。 |
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