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「石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす」11 優木麥 |
| 「愛人のところにでも行くんでしょ?」 ほのかは吐き捨てるように言った。サングラスを外した鹿川の目が悲しみに満ちている。秘書という立場で親子の確執を見てきた彼には、うかがいしれない思いがあるのだろう。 「こんな夜中にコソコソと。アイツらしいわ」 ほのかは、また自分の父のことを“アイツ”と呼んだ。私はいたたまれない。家庭の修羅場に同席している気分だ。 「お嬢さん、そんな言い方するもんじゃありません」 「いいでしょ、別に」 「稲垣先生を誤解しています」 「いくら鹿川さんがフォローしたって、私の気持ちは変わらない」 わめくほのかに対して、鹿川は感情を込めることなく、淡々と話す。 「先生が愛しているのは、ほのかお嬢さんのお母さんだけです」 「ウソ!!」 ほのかの目から涙が溢れていた。 「私は知ってるもの。見たんだから」 「お嬢さん……」 いかつい風貌の鹿川が必死になだめるが、一度感情に火がついたほのかの興奮は収まらない。 「アイツが先月、テレビの収録から帰ってきたとき、玄関で女性タレントといちゃついてた。私は見たんだから」 ようやく私は、ほのかが憎しみに近い感情を父親に向けている理由を知った。そのスキャンダルは、まだ表沙汰になっていないはずだ。 「ですから、それは誤解なんです」 鹿川は大人の態度を崩さない。 「目の前で抱き合ってキスしようとしたのに、誤解もへったくれもないわ」 ほのかの目には憎しみの光はない。自分の気持ちをどうしたらいいかわからない戸惑いが浮かんでいる。慣れているのか鹿川は、声を荒げることもなく、淡々と諭すように言葉をつなげる。 「あの女性は、社交ダンスを習いたてて、ベテランの稲垣先生にステップの踏み方を伝授してもらっただけだそうです。やましい話ではありません」 鹿川の言葉には真実味があった。だが、ほのかは納得しない。 「そう言えと指示されてきたの?」 「お二人で話せばわかることです」 「会わないわ。会うもんか」 ほのかはつぶやいている。私には、まるで自分自身に言い聞かせているような口調だった。 「昨夜もお帰りになってないじゃないですか。稲垣先生が本当に心配しています」 「心配なんかする人じゃない。厄介者がいなくて、せいせいしてるんじゃない」 あざけるようなほのかの言葉のあとに、鋭い叱責の声が飛んだ。 「ダメよ、そんなこと言ったら!!」 アマミだった。 ● 「何なの。アマミさんに私の何がわかるの?」 ほのかは食ってかかる。私と石倉が前に出て止めようと思ったほど、その剣幕はすさまじいものだった。 「何がわかるのよ」 それ以上は前に出ず、ほのかは同じ問いをくり返した。 「わかるよ」 アマミは静かに、力強く言った。 「わかるのよ。私には」 ほのかの目を見つめてくり返す。 「いい加減なこと言わないで」 「私もあなたと同じだったからわかるの」 アマミの言葉の後、その場が静まり返る。虚をつかれたほのかは、黙ってアマミを見つめていた。 「私が奄美大島を出てきたのは、お父さんに反発したから。お母さんは私が幼稚園ぐらいのときに亡くなってたわ。それで、後妻をもらったお父さんが、私には裏切り者に見えた。許せなかった」 当時を思い出したのか、アマミは遠くに目線を移す。 「だから、高校も中退して、そのまま東京に出てきた。まあ、駆け落ちみたいなもんよ。東京で一旗挙げるって粋がってた板前の子とね。でも、どっちもガキだったから、あてもなく知らない土地に来ても、お決まりの転落コースになっちゃったわね」 私は、その言葉に込められたアマミの膨大な思いを想像する。十代の男女には、耐え難い経験の連続だっただろう。 「帰ろうとは思わなかったの」 ほのかが口を挟む。 「それだけは思わなかったわ。挫けそうになったときでも、絶対に故郷には帰るまいと思ってた」 アマミの言葉に感情が宿る。 「お父さんに、あの女に頭を下げてたまるもんか。ずっとそう思って、それをバネにして歯を食いしばってきたのよ」 私は、胸からつきあがる思いを隠せない。 「でも、ある日、私がホステスをしている店に、お父さんが客としてきたの。ずいぶん探したんでしょうね。そして、私にこう言った。『いい店じゃないか。オマエは頑張ったんだな』って」 私は耐え切れずに泣いてしまう。 「そんな誇らしい店じゃないのよ。場末の、本当にしょうもない酔客が来るような場所だだったのに……。お父さんは笑顔で私を誉めてくれた。そのときに、スゥーッと肩の荷が下りたのよ」 アマミはそう言って、ほのかを見た。彼女は泣いていた。 ● 「ほのかチャン。あんたには後悔して欲しくないの」 アマミは真摯な姿勢で語りかける。 「ヤンチャしたっていいよ。でも、お父さんと話し合うのを拒否したらダメ。軽蔑するなんてもっとダメよ」 同じ痛みを知る者の言葉だからこそ、ほのかの心に届くのだろう。 「ほのか…」 その声は、その場の誰のものでもなかった。 私たちが声の方角に目をやると、信じられない人物が立っている。 「お父さん……」 ほのかが驚愕の表情を見せる。そこにいたのは、まぎれもなく稲垣重蔵。与党の大物議員が、午前3時を回った歌舞伎町にいた。 「すまないな。お父さん、いろいろオマエを傷つけちゃったな」 稲垣がほのかに歩み寄る。私は鹿川を見た。彼が、この場所にほのかがいることを先ほど携帯電話で連絡したのだろう。つまり、自宅に帰った稲垣が、車で向かったのは、歌舞伎町だったのだ。 「私こそ、ゴメンなさい」 ほのかが謝った。もはや、この親子に何も言うことはないだろう。 「皆さん、ご迷惑をおかけしました」 稲垣が私たちに頭を下げる。 「では、私たちは……」 稲垣がほのかを促そうとすると、彼女は私を振り向く。 「石岡さん、ちょっと…」 ほのかが私を路地の陰に呼んだ。 「よかったね、ほのかチャン」 「うん、石岡さん。これ、返すわね」 私の手に渡されたのは、私自身の財布である。ようやくこの手に戻ってきた。そもそも、彼女と知り合うきっかけになったのは、この財布の盗難からである。 「ゴメンなさい」 ほのかは深々と頭を下げた。もちろん、私にはもう含むところは何もない。財布の問題も、彼女の心の問題も、一気に解決したのである。 「いいよ、もう。万々歳だ」 「それじゃ、またね」 ほのかが手を振る。稲垣と鹿川も去り、その場に残ったのは、私と石倉と、アマミの3人である。 「長い夜だったなあ」 私は万感の思いを込めて言った。夜が明け始めている。歌舞伎町で一晩を過ごしたのだが、貴重な経験をさせてもらった。 「始発はもう出てるのかなあ」 なにげない私の言葉は、両脇を抱えた男女に却下される。 「何をおっしゃいます石岡先生。やっと飲み直せるんじゃないですか」 「そうそう。せっかくの宴なんだから。ウチの店でお祝いをして。それから帰りましょうねイッシー」 アマミと石倉は、まだ当分、私を放してくれないようだ。でも、心地よい拘束だった。歌舞伎町の夜は、まだ終わりそうにない。 |
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