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「石岡君、年末の格闘技大会に出る」9 優木麥 |
| 「オープンフィンガーグローブです。お試しください」 若宮は当たり前のように私にそれを渡した。彼女の立場はビッグバンバトルのイベントプロデューサーである溜来の秘書。しかし、いまはミステリーマスクに扮した私のお目付け役として控え室にいる。 「何ですか、この手袋みたいなのは…?」 「ですから、オープンフィンガーグロープです」 「それを…ぼくに…?」 「ええ。ちょっとハメてみてください」 「ぼくがですか?」 「さっきからそう申し上げています」 「大塚君がハメるべきだよね。なんで彼はまだ姿を現さないんだろう」 私は若宮から視線をそらす。計量室でレーナとお互いにエールを送りあってから、はや3時間。大塚はいまだ到着していない。そのうえ連絡も取れない状態だった。もう非常事態といえる。今夜のイベントのメインのリングに立つ一方の雄が、会場入りをしていないのである。 「もう一回電話してみるよ」 「石岡先生、私が申し上げているのは……」 「お願いだから電話をさせてほしい。きっと今度は出るような気がするんだ」 「いいから、グローブを手にハメなさい!」 若宮のメガネの奥の目がキッと鋭くなったため、私は仕方なくオープンフィンガーグローブを手にはめた。拳を保護するプロテクターがつき、第1関節から上の指が出ている。 「いかがですか?」 今度は笑顔で若宮が尋ねる。しかし、私の心は荒んでいた。とてもまともに問答をする気分ではない。 「暖かいね」 「いえ、ハメ心地に関してです」 「これをしたまま箸を使えそうだよ、きっと」 「じゃあ、相手の手足を掴んだり、関節技をかけることもできますね」 彼女の質問の意図はわかっていたが、私の我慢も限界に達した。 「若宮さん、さっきから気になることを確認してもいいですか」 「どうぞ、他の選手の方々からも同じことを訊かれますから」 若宮は手にしたクリップボードに視線を落とすと早口で答える。 「ヒジ打ちは禁止です。それから相手選手の両手両足がマットに着いている状態での顔面への攻撃は禁止。あと頭突きも禁止で……」 「若宮さん、ぼくが聞きたいのは試合のルールなんかではありません」 「試合形式は5分3ラウンド。KOで決着がつかなかった場合、判定に……」 「ぼくは出ませんよ!」 ほとんど私は叫んでいた。言わずにはいられなかった。ビッグバンバトルの開幕まであと1時間を切った。ところが、まだ大塚は到着していない。私は不安と恐怖で鼓動する心臓を口から吐いてしまいそうだ。 「もう外しますよ。ぼくには関係ないんだし……」 私はオープンフィンガーグローブに手をかける。こんな不吉なシロモノを身につけていたら、この先、何が待っているか知れたものではない。 「ダメです。そのまま着用していてください」 「なぜ? ぼくがこんなモノをしている必要は……」 「あるんです。もし、誰かが控え室のドアを開けたらどうするんですか。もうすぐリングに上がるファイターが試合の支度をしていないのは不自然でしょう」 「だって、ぼくはファイターではないし、リングにも上がらないから!」 私は泣き叫びたかった。 「何をもめているんです」 私の大声を聞きつけたのか、ドアが開いて溜来が入ってきた。彼はこの大晦日の格闘技イベントの主催者。その表情はにこやかだが、目は笑っていない。 「おう、石岡先生。似合いますよ。グローブつけるとオトコマエが増しますね。ちょっとファイティングポーズを取ってみましょうか」 「やめてくださいよ」 「先生の拳のサイズに合わせたんですよ。さあ……」 「溜来さん、試合をするのはぼくではありません」 きっぱりと宣言した。暴君竜と戦うのは大塚克美しかいない。 「そんな大きな声を出さなくても承知していますよ」 溜来は猫なで声で言った。私は耳を塞ぎたい。いつのまにか彼のペースにのせられて、ここまで来てしまった気がする。そもそも記者会見に代理で座っているだけのつもりで引き受けたのだ。優柔不断な私だからズルズルと流されてきたが、いくら何でも限度がある。 「この後、ぼくがやることは大塚君のセコンドだけです」 「わかっています。それが石岡先生にとって最善の道だと、私も確信しております」 「もう一度、大塚君に連絡してください。お願いします」 「落ち着いてください。石岡先生のお気持ちは重々わかっているつもりです」 「だったら、もう解放してください」 自分で言うのもなんだが、私は大塚のいない間の代理を一応は果たしたと思っている。これ以上、この覆面を被ったままでは正気を保っている自信がない。どこか、自分の知らない世界に連れて行かれそうだ。 「覆面は、いつでも外せるじゃないですか!」 今度は溜来が怒鳴った。温厚そうに見えるが、感情の起伏の激しい格闘家たちの試合をプロデュースしているつわものなのだ。 「すみません。石岡先生に大きな声を出したりして」 溜来は頭を下げる。私は「いえ、大丈夫です」と応えた。 「これだけは理解してください。いま石岡先生が全てを投げ捨てれば、これまで皆で積み上げてきた努力を水の泡にしてしまいます」 「でも、ぼくはどうすれば……」 私の口の中はカラカラに乾いていた。正直言って姿を現さない大塚が恨めしい。腰の治療を終え、名古屋を出るという連絡があったのが2時半。現在は6時を回っているので、あれから優に3時間半が経過している。何か不測の事態が起きたのだろうか。 「とにかく、選手入場式には石岡先生が代理で出てください」 溜来が毅然と言った。異論は許さないという気迫が私に伝わってくる。 「私も大塚選手の人間性とプロ意識を信じます。だから、ギリギリまで彼の到着を待ちたい。これは格闘技プロデューサーとしての私の責任です」 「は、はい……」 「お願いします石岡先生。7時から始まる選手入場式に代理で出てください。それからメインイベントが始まるまでは、3時間以上ありますから。大塚君の試合までならまだ時間はたっぷりあるんです」 「まあ、言われてみれば……」 「大丈夫です。入場式と言っても、アナウンサーのコールを受けて、お客さんに手を振ればいいんです。それだけですよ」 「ほ、本当にそれがぼくの最後のお勤めと考えていいんですね」 私は念を押した。溜来は大きくうなずく。 「では、やります」 私は選手入場式にミステリーマスクとして出ることを承諾した。そのときである。私の携帯電話が鳴り響く。相手は大塚だった。震える手で私は電話に出た。 「もしもし、石岡だけど……」 「ああ、先生。すみません。遅れてまして……」 「どうしたの大塚君。いまどこ?」 「名古屋です」 大塚の一言で、私は目の前が真っ暗になった。なぜ、3時間半前にこちらに向かうと言った彼が、まだ名古屋に居るのか。 「ど、どういうことなの?」 「実は一度、新世紀アリーナまで行ったんですが……」 大塚が口ごもる。私は携帯電話が壊れそうなほど握り締めた。何か不測の事態が生じたとしか考えられない。腰痛が再発したか。あるいは暴君竜と試合をする恐怖に闘志が打ち負けたのか。 「関係者入り口でガードマンの方に止められたんです」 「う、うん……」 「それで初めて気がつきました。IDパスを名古屋に忘れたことに!」 関係者入り口を通るにはICチップ内蔵のカードが必要だ。私も持っている。だが、大塚は出場選手である。たとえIDパスを携帯していなくても通れなければおかしい。まさに“顔パス”というやつだ。 「ほら、僕はミステリーマスクでしょう。だから出場選手の顔として、ガードマンの手元の資料になかったんです」 「そんなバカな……」 確かに“ミステリーマスク”として出場する大塚の素顔はガードマンにはわからないだろう。 「ミステリーマスクを呼んでほしいと言ったら『選手やプロデューサーの皆さんは、試合前で忙しいんだ。素性の知れない人の連絡はできない』と怒られまして……」 「それなら携帯電話で私に電話するとか、溜来か若宮を呼んでもらうとか、いくらでも方法は……」 「そうなんですけど……実はケータイもIDパスと一緒に名古屋に忘れてきてしまってまして。電話番号が全然わからなかったんです」 そのために2時半以降、大塚の携帯電話に連絡しても誰も出なかったのか。 「とにかく、今から名古屋駅に向かってますから、すぐに新幹線に乗るので、もう少しだけ待っててください」 大塚はそう言って電話を切った。現在の時刻……6時30分。 |
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