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「石岡君、ペットシッターになる」3 優木麥 |
| 寿司桶の中は、ほとんどがシャリだけになっていた。トロやヒラメ、サバやイクラ、ウニなどのネタがことごとく、プリシラのお腹の中に納まったのだ。 「コラッ!」 私は思わず怒鳴ってしまった。しかし、プリシラはまったく意に介さずに大トロと挌闘している。主人であるサチコはいないので、オマエの言うことは聞かないよという態度である。とにかく、テーブルの上からは降ろさなければならない。意を決した私はプリシラを後ろから抱きかかえようとした。すると、プリシラの鋭いツメが私の手を引っかいた。 「痛っ!」 私は手を引っ込めざるを得ない。どうしたものかと考えあぐねていると、ようやく最後のネタを食べ終わったプリシラはゆうゆうとテーブルを降りた。私の姿など一瞥もしない。完全に敗者の気分である。私の携帯電話が鳴る。サチコからだった。 「石岡先生。私ってダメですわね。もう気になってお電話してしまいましたわ」 「あ、…ハイ……」 「プリシラちゃんと、ケンスキー君に変わりはないですか? あの子たちったら、私がいなくなったことがわかるみたいで、家を出るとすごく寂しがるらしいんです」 どうひいき目に見ても、プリシラがサチコの不在を悲しむ様子は私の目には映らない。いや、むしろ鬼のいぬ間の洗濯よろしく、喜んでいるようにさえ見える。 「そうですね。とくに変わったところはないと思いますが……」 「石岡先生!」 サチコの口調が厳しくなった。 「何かあったんじゃないですか? 口ぶりがさっきと違いますわよ」 そこで、私はプリシラが寿司のネタを食べてしまったことを説明する。まるで子供の悪さを親に告げ口するようでいい気はしないが、引っかかれた腹立たしさも手伝って、私は事実をサチコに教えたかったのだ。 「何ですって!」 私の話を半分も聞かないうちに、サチコは怒鳴った。 「おっ、お寿司……。ま、まさか……プリシラちゃんが…」 ショックを受けるのも仕方ないと私は思う。たぶん、飼い主であるサチコがいないときのプリシラが傍若無人に振舞っていても、世話を引き受けている彼女の友達は誰もそのことを注進しないのだろう。しかし、自分の家族であると公言するほど可愛がっているのなら、プリシラの本当の性格を知る義務があるのである。 「子供のしつけという考え方をすれば……」 「イカは食べてないでしょうね」 サチコの叫び声の語尾が震えている。 「イカですか? たぶん、ないと思い…」 「貝は? 貝はどうなんです?」 切羽詰ったような彼女の迫力に、私は慌てて寿司桶の中を覗いた。先ほどは気がつかなかったが赤貝やホッキ貝、ホタテなどの貝の寿司は残っていた。 「貝も食べてないみたいです」 私の報告にサチコは安堵の息を漏らす。 「よかったわ。私はいま心臓が止まりそうでしたよ」 「イカと貝が何か……?」 恐る恐る私は質問してみる。 「何か、ではありません。イカと貝は、プリシラちゃんにはご法度の食べ物なんです」 「えっ、そうなんですか?」 「石岡先生、そんな頼りないことでは困りますわ。ちゃんとお渡ししたメモのPの5番の項目に書いておいたはずです」 「…すみません」 一応謝ったが、私の内心は納得していない。メモをもらったのは、ほんの十五分ほど前の話だし、サチコを見送って部屋に戻ってきたら、プリシラが寿司を勝手に食べていたのである。急いで彼女のメモの指摘された箇所を開いた。それによると、イカや貝に含まれているチアミナーゼがネコには悪いらしい。このチアミナーゼがネコの神経を伝達する部分を阻害する。たとえば、腰の部分に神経がいかなくなって、フラフラになってしまう。そのことを知っているのかどうかはともかく、プリシラはしつけ通りにイカと貝は食べなかったのだろう。 「くれぐれも気をつけてくださいね」 「ハイ、わかりました」 さんざん小言をいってから、ようやくサチコは電話を切った。よく考えると、何に対して怒られたのかもわからない。だが、温厚で見識もあるはずのサチコは愛するプリシラのことになると他が見えなくなると好意的に解釈することにした。気を取り直して、貝のネタの寿司を摘む。その私の腕を何かがつついた。プリシラだった。先ほどは私の存在など眼中になかったのに、今は私の顔を見て「ミャゥゥア」と鳴く。そして、口にくわえてきた手袋のようなものを見せる。 「ちょっ、ちょっと待って」 私はサチコのメモをめくった。 「D−5番 遊び用の手袋をくわえてきたら、お遊びタイム。手袋をハメて、軽くパンチを出してやると、プリシラちゃんは喜んで取っ組み合おうとする。子猫の気分になって、こちらもレッツ じゃれあい!」 メモにはそう書いてあるが、私はスッキリしない。何しろいまプリシラのことでさんざん怒られたばかりなのである。 「ミャゥゥア」 プリシラは座っている私の腕の辺りにゴチンゴチンと、自分のオデコをぶつけてきた。私は再びメモのページを繰る。 「D−6番 遊べ遊べアタック。オデコをゴッチンコするのは、プリシラちゃんが遊びたいときに見せる最上級のおねだり表現。たとえ世界の危機が迫っていても、このときは遊んでやるべし」 私の気持ちにも変化が生じた。プリシラは私の顔を見上げて鳴いている。さっきまで悪童に見えていたが、こうして自分を慕ってくれると、可愛さが募ってしまう。私は遊んでやることにした。特製の手袋をはめると、プリシラに向かって軽く張り手を繰り出す。プリシラはその攻撃を受けて、ネコパンチを出して反撃してきた。手袋をはめた私の手を両足でつかむと、盛んに噛み付いてくる。 「フギャーア、ギャアー」 興奮してきたプリシラが、私のフェイントに反応して左右を飛び回る。いつのまにか私の方が夢中になってプリシラとの遊びに興じていた。 ポチャン! 庭の池でコイが撥ねる音がする。プリシラの動きが止まった。他にも音が続かないかと、耳を動かして探っている。 「来い、ほら来い」 私がプリシラの背中を手袋ハンドでペシペシ刺激するが、プリシラは反応しなくなってしまった。もはや私の方を見もしない。それどころか、廊下に出て行き、引き戸の前で「ミャアーミャー」と鳴き始めた。 「えっと、外に出たいの?」 プリシラは窓の前で私の顔を見て鳴きつづける。 「もう少し遊ぼうよ」 盛り上がっていた私はプリシラを遊びに引き込もうと、手袋ハンドを目の前で左右に動かすが、まるで無視された。早く開けろとばかりに、鳴き声のトーンが上がっていく。 「わかりました」 私は根負けした。よくネコのように自由気ままという表現をされるが、今日ほどその言葉を肌で感じた日はない。私が引き戸を開けると、プリシラは私を振り返りもせずに庭に飛び出ていく。取り残された私は気持ちを切り替えて、小説に取り組むことにした。 ● 「すみませーん。ごめんくださーい」 チャイムの音と共に玄関から人の声がする。どうやら私は小説を書き始めたはいいが、静寂な環境の良さに、ついウトウトしてしまったらしい。すぐに玄関へと出た。立っていたのは、ポロシャツにジーパンの若者だ。手にはグローブをはめている。 「すみません。ちょっとお宅の庭にボールが入っちゃったんですけど……」 男は恐縮そうに頭を下げた。 「どうぞ。こちらです」 私もクツを履くと、玄関から出て庭に回った。男が後から付いてくる。 「立派なお庭ですねー」 「いえ、ぼくも今日初めて見たんです」 「えっ…?」 「この家の人間ではなくて、留守番を頼まれているもんですから」 私が男にそう説明していたとき、茂みから黒い影が現れた。 「グゥゥゥー!」 ケンスキーは私達の前に立ちふさがるようにして低く唸っている。 |
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