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「石岡君、ペットシッターになる」4 優木麥 |
| まるでシャーロック・ホームズの長編「バスカヴィル家の犬」に出てくる伝説の魔犬を思わせる迫力だ。 「こっ、怖いです。慣れてるんでしょ。何とかしてください」 男は私の陰に隠れるように身を寄せている。 「どうしたの? ケンスキー、落ち着いて」 そう言う私の腰も引けていた。先ほどの散歩のときはこんな野生むきだしの敵意は見せなかったのに、どうしたのだろうか。まさか、プリシラのようにケンスキーも、主人であるサチコがいなくなったので、本性を露にしたとでもいうのか。 ピーッ、ピーッ。私の腕時計のアラームが鳴る。私はその音で、ケンスキーが不機嫌な理由を察する。御飯の時間なのだ。不覚にも私は眠ってしまっていたので、定時にケンスキーの食事の準備ができなかった。サチコの場合は神経質なまでに時間通りに食事を与えているのだから、少し遅れただけでケンスキーの機嫌が悪くなるのも道理かもしれない。 「グゥゥウ! ウー!」 ケンスキーは今にも我々に飛びかからんばかりに迫ってくる。 「食事の時間なんです。とりあえず、家に入ってください」 私と男は玄関まで走る。ケンスキーは追ってこなかった。 「ちょっとここで待っていてください。すぐにケンスキーの食事を用意しますから」 男にそう言って私は台所に行く。サチコのメモによって細かく指定されたドッグフードの分量を皿に取り分けて崩すと、急いで玄関に戻る。 「あれっ?」 玄関から男の姿が消えていた。先に庭に行ったのかとも思ったが、彼のクツは残されている。たぶんトイレだろう。私は気にせず、ケンスキーに食事を持っていこうとした。庭に入ると、足元にプリシラが飛び出てくる。 「ミャアアア」 プリシラが足元にまとわりつくので、私は転びそうになる。 「ダメだよ。ちょっと今は急いでいるから」 私が言っても、例によってプリシラは聞かない。仕方なく、私は立ち止まる。すると、プリシラは私の足元に寝転がって、お腹を見せた。 「ミャアアア」 私はサチコのメモを繰る。 「N−5番 プリシラちゃんがお腹を見せて寝転ぶときは、最高にご機嫌な気分の証拠。優しくお腹を撫でてぇと甘えている。これでも撫でない人を私は人類とは認めません」 プリシラはこちらを見て甘えながら、足を投げ出している。さっきはすげなく遊びを切り上げて立ち去ったくせに、本当に自分勝手だ。だが、私は愛らしさにまた負けてしまった。 「しょうがないなあ」 口ではそう言いながらも、結構嬉しい気持ちである。しゃがみ込むと、ケンスキーの皿を脇に置く。そして、プリシラの柔らかそうなお腹に手を伸ばした。 「ゴロニャゴー」 ネコのお腹はフニュフニュしていて触り心地がいい。私は優しくプリシラのお腹を撫でる。そのとき携帯電話が鳴った。またもサチコからだった。 「石岡先生、さきほどは少し言い過ぎました。ゴメンなさい。許してくださいね」 「いいえ、大切な″家族″に対するお気持ちですから、真剣になるのはわかりますよ。ご心配なく」 「そうですか。あの…プリシラちゃんたちに変わりはありませんか?」 「ええ、元気そのものですよ。さっきも遊んであげましたし、今もお腹を…ウッ、痛っ」 突然、プリシラがお腹を撫でている私の手を噛んだ。それも甘噛みではなくて、牙を突き立てるほどの強い一撃だ。 「ダメです。石岡先生、大声をあげたり、暴れたりしたら、プリシラちゃんも興奮してもっと攻撃してきますよ」 サチコはそう言うが、私は目から涙が出そうなほど痛い。プリシラは私の右手にぶら下がる勢いで噛み付いていた。 「どうすれば…いいんで…すか」 私は訳がわからない。なんで一番甘えるモードになっていたプリシラに噛み付かれなければならないのか。 「ネコちゃんと付き合うには、不条理を受け入れることが大事です」 「あー痛い痛い」 私はほとんど泣きそうだったが、手も動かさずに必死で我慢した。それが功を奏したのか、それとも飽きたのか、ようやくプリシラは口を開けて、私の手を解放した。 「い、いま手を離してくれました」 「よかったじゃないですか」 サチコは私が傷ついたことをまったく理解していない。 「プリシラちゃんを叱ってはダメですよ。噛み付いたときに叱らないと、ネコちゃんは何のことで叱られているのかわからないんですから」 サチコの言葉には矛盾がある。それなら、さっきの噛み付かれた瞬間に、ダメだと叱らないと永遠に学習しないのではないか。 「よろしくお願いしますね。またご連絡します」 サチコの電話が切れた。 「あれっ?」 何事もなかったかのようにプリシラはツイと立ち上がると、そのまま歩き出す。 「ちょっと、それはないんじゃないの」 相手に言葉が通じないのはわかるが、恨み言のひとつも言いたくなるというものだ。 「おーい、もう撫でてやらないぞ」 大人気ないことを毒づきながら、私はケンスキーの皿を持ち上げようとする。いや、正確には皿を置いた位置に、そろそろと左手を伸ばした。右手に目をやると二箇所から血が流れている。 「グゥゥゥウウ」 ありがたくない獣の低い唸り声が聞こえた。その方向を見ると、すでにケンスキーが皿に顔を突っ込んで食事を始めている。私が皿に手を伸ばしたので、自分の食事を取り上げられると勘違いしたようだ。 「いや、いいんだ。君にあげようと思っていたんだから。どうぞ、構わずに食事を続けてよ」 私の言葉の意味がわかったわけでもあるまいが、ケンスキーは再び食事に専念する。何はともあれ一段落だと考えていたとき、玄関のチャイムが鳴った。 ● 呼び出しのチャイムに対して、さきほどの男が私を呼んでいるのかと思っていた。ところが、玄関に出てみると、制服姿の警備員が立っている。 「こんにちは。ガンジョー警備会社の大河原です」 大河原は帽子を脱いで挨拶した。 「お留守番をされている石岡先生ですよね」 「はい」 「さきほど、この家の宝物室にセットされているセンサーに異常がありましたので、伺ったんです」 「えっ…?」 私はまったく気が付かなかった。というより、宝物室にオークションの品々があることを忘れていた。 「すぐにお願いします」 何度も来ているのか、大河原は宝物室に一直線で辿り付く。ドアの前に立つと、警棒を右手に持って油断なく構える。 「外側には異常がないようです。入ってみましょう」 ドアを開けると、大河原が先に入る。 「いかがですか? 何か不審な点は?」 大河原に尋ねられたが、私にも自信がない。 「さあ、私も一度見ただけなので…。大きく変わっている点はないようですけど…」 頼りない言葉だが、仕方がない。たとえ皿の一枚や、宝飾品のいくつかを盗まれていたとしても、私には察知することは不可能だ。 「誤報かもしれません。機械ですから、数%の確率でありうるんです」 大河原の言葉に私はホッとした。二人で宝物室を出ると、ドアを閉める。すると、ガリガリという音がした。見ると、プリシラが宝物室のドアを爪で引っかいているのである。 「コラッ、プリシラ。ダメだよ」 私はプリシラを抱き上げてどかせようとするが、強く四肢を踏ん張るプリシラは持ち上がろうとしない。 「ここは入ってはダメだって」 またもやプリシラは私の言うことを聞こうとしない。 「すみません。ワガママなネコで…」 「いいえ」 大河原が真面目な顔をして宝物室のドアに近づいた。 「私は何度かこちらにおじゃましていますが、このネコがこんなに入りたがるのは初めてです。もしかしたら、何かあるのかもしれません。もう一度調べてみましょう」 「はっ、はあ…」 私は気が進まない。プリシラの気まぐれに振り回されている結果に終りそうだ。そのとき、またもや玄関のチャイムが鳴った。 ● 今度の訪問者は、なんとさきほどケンスキーの散歩のときに出会った海淵坊だった。 「あ、あの……」 反射的に私は警戒した。まさか、あれだけ説明しても、まだ私が出家希望だと勘違いしてここまで追ってきたのだろうか。 「邪気がある」 「へっ?」 私には彼の言葉の意味がわからない。 「失礼ながら、当家にはただならぬ気配を感じる。それも今夜を待たずして、現世に姿を見せ、当家に災いを為すであろう」 「災いですか?」 「さよう、悪霊がとりついておるのだ」 私には理解不能である。 「拙僧が悪霊を払って進ぜよう」 「いえ、お待ちください、和尚様。そう急に言われましても…」 私の警戒心は、当初とは別の懸念に変わっていた。いもしない悪霊やら祟りやらを持ち出して、お祓いを買って出、法外なお布施を要求するのではないかと思ったのだ。 「私はこの家の者ではなく、いま留守番して……」 「えーい、一刻を争うのじゃ。御免」 海淵坊は私を押しのけるようにして家に上がると、そのままズイズイと奥に進んでいく。 「待ってください。困ります」 追いかける私は懸命に止めようとするが、腕っ節も強そうな身体を止めることができない。 「黙って見ておれ。ワシに任せよ」 ついに、海淵坊は一番奥の部屋である宝物室の前に立った。 「ここじゃ。この中にもっとも強い邪気を感じる」 私は慌てて入り口に立ちふさがった。 「なりません。この部屋は絶対に他人を……」 「事情はあとで伺おう」 海淵坊は私をどかせると、宝物室を開けて中に入る。私も後に続いた。 「何事ですか?」 再び室内をチェックしていた大河原が私達の姿を見て怪訝そうに言う。 「困りますよ」 私達の苦情など一切取り合わずに、海淵坊は室内の一点を睨みつけるとお経を唱えだした。 「さあ、姿を現せ。悪霊よ。カーッ!」 裂帛の気合が宝物室に響き渡る。私の身がすくむ思いだ。そのとき、プリシラが室内に飛び込んできた。 「あーあー、ダメだよ」 私が捕まえるヒマもなく、プリシラは飾ってあった鎧武者に飛びかかる。数千万円はしそうな骨董品が傷つくイメージが頭に浮かび、私は失神しそうになる。ところが、信じられない現象が起きた。プリシラに飛びかかられた鎧武者が立ち上がったのだ。 「ひーっ」 私は腰を抜かしそうになる。 「悪霊め、おとなしく往生せい」 数珠を突き出す海淵坊と、とっさに動けない大河原の間を鎧武者はすり抜けると、宝物室から出て行った。 「いかん、止めないと」 一同も後を追って駆け出した。もちろん私も最後の気力を振り絞って走る。庭では、悲鳴と鳴き声が交錯している。私達がたどり着くと、ケンスキーに噛み付かれて、うずくまる鎧武者が見えた。 「はーはー、助けてくれー」 恐怖におののく声をあげている鎧武者を大河原が組み伏せた。兜を脱がすと、その顔は、さきほどボールを取りに来た若者だった。偶然を装って、家に上がり、宝物室に隠れていたわけだ。 「お手柄だったぞ、ケンスキー」 私はケンスキーの頭を撫でてやる。番犬の名誉を回復した彼は嬉しそうに吠えた。 ● 「いやー、石岡先生はまるでドクタードリトルじゃな」 海淵坊は動物と会話のできる獣医の名を挙げてくれたが、私にはこそばゆい。盗人は無事に警察に引き渡された。 「ワシなど泥棒を捕まえるのに、少し芝居っ気を出しすぎましたわ」 「いいえ、でもどうしてこの家に泥棒が入ったことがわかったんですか?」 私は疑問点を口にした。 「あの男は、車上荒らしや空き巣をくり返している指名手配犯でな。ワシは何度も警察から手配書を見せられておる。それから、丹沢サチコさんとは幼馴染で、この家にもよく遊びに来てるんじゃ」 私には思い当たるふしがあった。 「それで、あのお寺がケンスキーの散歩コースに入っていたんですね」 「その通り。あんたがサチコさんのケンスキーを連れて、ワシの寺に来たのでビックリしてな。一応、どういう人物か確認しようと訪ねてきたら、あの泥棒がウチに入っていくのに出くわしたというわけじゃ」 事情が飲み込めた。私達が話している部屋にプリシラが入ってきた。今回のMVPである。彼女が泥棒の居場所を教えてくれなかったら、夜になってオークションの品は運び出されてしまっただろう。プリシラは優雅な足取りで海淵坊の横を素通りして、私の膝の上に載ってきた。 「アッハハハ。こりゃまいった。子猫のときからここに通っておるワシが、いまだになついてもらったことはないのに」 「エッ? そうなんですか?」 プリシラが私の膝の上で「ミャアア」と鳴く。やっぱりネコはわからない。 |
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