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「石岡君、テレビCMに出演する」2 優木麥 |
| 着流しの男の行動は思いもよらないものだった。なんと、その場に両手両膝を突いて土下座をしたのである。 「石岡先生、この通りです。わずかでも先生のお時間を頂戴したい」 私は意外な展開に唖然とする。ただ一方で命を狙いにきたヒットマンでないことがわかり、少し安心した。 「私の名前は太田凡梧(おおた・ぼんご)と申します」 その名前に聞き覚えがあった。それもごく最近耳にした気がする。 「CM出演のため、私と演歌ユニットを組んでください」 「ああ、その話ですか」 私はようやく得心がいった。数日前、CMプランナーの西城がCM出演の電話をしてきて、断ったばかりだ。そして、その際にCMタイアップ曲を歌う演歌ユニット「文豪凡梧(ぶんご・ぼんご)」を提案されたのだった。 「ただ私にはとても演歌を歌うなんて…」 「お願いします。この通りです」 アスファルトに額をこすりつける凡梧に対して、私は慌てて彼の手を取る。 「顔を上げてください。そんなことをしていただいても困ります」 「いいえ、ともにやってくださるとお返事いただけるまでは…」 「とにかく、話をしましょう。対等な立場で話し合うのでなければ、ぼくは金輪際、話し合いに応じませんよ」 強い口調の私の言葉に、ようやく凡梧は顔を上げ、土下座をやめた。 「わかりました。是非、私の話を聞いてください」 私はさっき出てきたばかりの喫茶店に凡梧と入っていく。二人の姿を見たマスターは目を丸くして驚いたが、私が事情を説明すると奥の個室を貸してくれた。 「まず先生にはご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」 席に着く前に凡梧は直立の姿勢から深々と頭を下げた。 「どうしても石岡先生に直接お話をしたかったので、すみません」 「構いませんよ。突然だったので、ちょっとビックリしただけですから、とにかく座って話をしましょうよ」 凡梧の切り出した話とは次のような内容だった。 歌手を目指して岡山から上京してきた彼は、演歌界の大御所、地見守男に弟子入りをする。早朝に師匠を迎えに行って、夜遅くまでつきっきりで世話をする生活が続く。守男がクラブで飲んでいるときは、車の中で菓子パンをかじって待っている毎日。おしぼりの作り方が悪いと殴られ、挨拶の声が小さいと殴られ、タバコを切らせたと言って殴られる日々を凡梧は20年間過ごす。 「20年ですか」 さすがに私はその忍従の日々の長さに驚いた。 「その間にデビューの話がなかったわけではありません。でも、地見先生が『よし』とおっしゃってくださるまでは、私はデビューしないと決めていたんです。その先生がようやく合格のお言葉をくださったのは、私が40歳の誕生日のことでした」 演歌の世界にはまるで疎い私だが、そこには一昔前の日本で美徳とされていたさまざまな精神が残っている気がした。ゆるぎない絆で結ばれた師弟関係や、数十年一剣を磨くといった職人の価値観が確かにそこにある。 「ですが、私がデビューして三ヶ月もしないうちに地見先生が亡くなられてしまったんです」 凡梧の目が潤んでいた。 「ヒット曲の一本を出し、地見先生に喜んでもらいたかったのですが、私はついに晴れ姿をお見せすることがかないませんでした。いえ恥ずかしながら、デビュー以来の五年間、今でも鳴かず飛ばずの歌手活動をしているのが現状です。最近では新曲の出るペースも年に一度か二度。真剣に廃業も考えなければならない状態になっています」 せつせつと訴えていた凡梧は身を乗り出してきた。 「だから、今回のCMタイアップ曲の依頼は、天にも上る気持ちだったんです。日の当たる場所で歌うことができる。もしかしたら、最後のチャンスかもしれないと」 彼の話を聞いていた私の内面では大きな変化が生まれていた。凡梧が「話がある」と言ってきたときから、いくら懇願されても自分が「演歌ユニット」でCM出演をすることを引き受けるとは思えなかった。ところが、凡梧の生々しい話を知ってしまった今では、むげに断ることなど難しい。 二十年間の下積み生活。 五年間の不遇の歌手生活。 そして彼の歌手人生における最大最後のチャンス。 「あの……」 こちらをジッと見つめる凡梧に対して私は何かを言わなければならない。 「お話はわかりました。おっしゃりたいことも…」 「石岡先生、是非なんとか…」 「あ、土下座はもう勘弁してください。わかりましたから」 「エッ…わかりましたとおっしゃいますと?」 私は息を軽く吸って、吐くように言った。 「演歌ユニット『文豪凡梧』をやります」 ● 「石岡先生は和装が似合いますよ。もっと普段からなさればいいのに」 スタイリストの女性がそう言ってくれた。過分にお世辞の混じった賛辞を受け入れるわけではないが、鏡の向こうの自分の着流し姿は新鮮である。着ている私自身はよく知らないが、越後上布の夏着物らしい。白地の着物の上に平ぐけ帯一本どっこを締めている。帯は黒地に金で「ぶんごぼんご」と染め抜かれた特注品。そこまで決まれば、キリリといなせな雰囲気が漂うはずが、私の場合は縁台で将棋を指しているのがふさわしそうだ。 「石岡先生、本当にありがとうございます」 ユニットの相方となる凡梧が何度目かの一礼をした。彼は、私と色違いの着流し姿である。 「もうよしてください。やると決めたんですから、ぼくは頑張りますよ。凡梧さんの足を引っ張らないようにしますので、こちらこそよろしくお願いします」 「そんな…」 「当然ですよ。あ、そうだ。ちょっと鏡の前で並んでみましょう」 私と凡梧は並んで立った。 「カッコいい! 決まってますよ」 室内にいたスタイリストやヘアメイクの女性達が拍手をしてくれた。衣装も揃って、何となく気分が高揚してくる。 「おー、オトコっぷりが増しましたねー」 携帯電話を片手にせわしげに動き回っている西城が控え室に戻ってきた。 「では、皆さん、準備も整ったようですので、競技場のほうにお願いします」 西城が「競技場」と言ったのは、比喩でも何でもない。文字通り、私たちは今、横浜に新しくできた総合競技場にいるのだ。そして、CMの撮影はここで行なわれる。今回のコラボレーションに参加している企業は三社。 総合フィットネス企業「ダッシュラン」 ビールメーカー「サドンバブル」 パソコンメーカー「周防コンピュータ」 いずれも世界に冠たる大企業だ。いまだになぜ私にお鉢が回ってきたのか、どうにも理解できない。しかし、演歌ユニットという設定は、三社をつなぐ「和風」のコンセプトが欲しかったらしい。いずれにせよ、私がそんな重大な役割を担う必然性はゼロだと思うが、凡梧のためにも与えられた役目は果たすつもりだ。 「ピーカンでよかったですよ」 私に並んで話しかけて来たのは、西城だ。 「何ですか、ピーカンって?」 「あ、晴れのことです。野外ロケの日は、本当に胃が痛くなります。皆さんのスケジュールを押さえられるのは、限られますから」 「他の方々はそうでしょうね」 私としてはそう答えるしかない。私のスケジュールなど一週間雨が降り続いたとしても問題ないだろう。 「石岡先生、これは了承しておいていただきたいのですが…」 西城が意味ありげに切り出した。 「CMの現場というのは、生き物でして…。多分にその場の勢いとか、ノリで決まっていく部分がありますので、よほどのことがない限り、ご協力をなにとぞ宜しくお願いいたします」 イケイケの西城に殊勝に頭を下げられると、こちらが恐縮してしまう。 「大丈夫です。私こそご迷惑をかけないように頑張りますので……」 話しているうちに、競技場のトラックに出た。そこで私たちを待っていたのは、撮影クルーだけではなかった。数人の外国人が短距離走のユニフォームでストレッチやウォーミングアップをしている。 「あの人は、まさか……ガンマレイ・バルバ、じゃないですか?」 「そうです」 西城は事も無げに言う。 「彼は、この前のオリンピックの200メートル金メダリストでしょう」 私は非現実的な場面に平静ではいられなかった。 |
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