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「石岡君、焼き肉屋に行く」3 優木麥 |
| 「肉襦袢(にくじゅばん)」という荻窪駅の近くにある焼き肉店に私達が到着したのは午後9時を回った頃だった。待ち合わせした4時から恐ろしいほどの時間が経過している。その間に私はマウンテンバイクで疾走し、フィットネスジムのエアロバイクをたっぷり30分間漕ぎ、京子が「クールダウン代わりに」と提案したクロール百メートルを泳いでいる。我ながら、よく死なずに済んだなと思うほど運動した。もうこれで向こう3年間は身体を動かしたくないほどだ。 「いい汗をかきましたね」 目の前に座る京子はスッキリした表情である。たぶん、彼女の平素のトレーニングメニューよりはだいぶ軽めだったのだろうが、私には十分に殺人的だった。 「そうですね。ぼくの場合は冷や汗や、脂汗も多かったですけど…」 私の言葉を冗談と受け取ったらしく、京子はおかしそうに笑う。かけねなしに、私はこのまま死ねたら楽なのになと思える瞬間が、四回はあった。 「さあ、いよいよ焼き肉ですよ。石岡先生」 京子の言葉は、私の心を弾ませた。その通りだ。ようやく焼き肉にありつけるのだ。ここまで来るのが長かった。何度も逃げ出したくなった。あきらめようとも思った。しかし、私個人としては、言語に絶する試練を経て、何とかここまで辿り着いたのである。京子の言う苦しみや汗の量が焼き肉を食べる代償であるなら、口幅ったいが今日の私はその資格取得者だと自負している。 「先生はお嫌いなモノはありますか?」 「大丈夫ですよ」 「内臓系も問題ない?」 「ええ、大丈夫です」 メニューを目にして、私の舌と胃が歓喜に震えている。 「このお店は、肉の卸会社が経営しているので新鮮で値段も安いんです」 京子の説明が、さらに肉の写真の旨みを増していく。カルビ、ロース、タン、モモ、ハツ、レバー、ミノ、ハチノス、センマイ、ハラミ…と並ぶ肉と内臓は、私の食欲を最大限に刺激してくれた。 「ハツは心臓、レバーは肝臓だとご存知ですよね」 「ええ…」 「カルビは肋骨の周辺についた肉です」 「へー、名前だけでそこまでは知りませんでした」 「ミノは牛の四つの胃の中で一番大きい第一胃のことです。切り開いたときに蓑傘のように開くからそう呼ばれるんですって。第二胃がハチノス。由来は表目のひだが蜂の巣のように見えるからです」 「はい…」 肉に敬意を表して食べるためには、京子の雑学披露にもつきあわなければいけないようだ。 「センマイが第三胃。壁のひだが千枚のひだのように見えるからです。最近人気が高いハラミは横隔膜のことなんですよ」 「いろいろ御存知なんですね」 「味だけ知っていればいいなんて言う人もいるんですけどね。私は知識も身に付けて花も実も味わいたい性分なんです」 「いいご趣味じゃないですか」 私は早く注文したい気持ちを抑えながら対応する。 「すみません、講釈が長すぎましたね。さあ、それでは存分に焼き肉を味わっていただきましょう」 「ええ、そうですね」 喜びが前面に出ないように私は控えめに応じた。 「まず一通りのメニューを味わって、その後、好みに応じた注文をする形にしましょうか」 「そうしましょう」 「じゃあ、コースで頼みますね」 京子はこの店に来なれているらしく、コースの名前で注文した。 「先生は飲み物を何になさいますか?」 「そうですね、ビー…」 私が「ビール」と口にしようとした瞬間、京子の目の色が変わったのに気付く。やはり、ここでも作法があるのだろうか。 「私はマッコリを飲みますけど…」 「あっ、ぼくも同じものでお願いします」 自分の気の弱さには、ほとほと嫌になる。ちなみにマッコリとは何だろう。注文しておいて京子に尋ねるのも気が引けているうちに、現物が運ばれてきた。 「さあ、まずは乾杯です」 私のグラスに注がれた液体は、白濁している。飲んでみると、酸っぱいような、甘いような、苦いような味だ。 「韓国の伝統酒です。庶民のお酒として嗜まれてきました。日本流に言えば、いわゆるどぶろくですよ」 京子の説明によれば、マッコリとは米などを蒸した中に、麹と水を加えて発酵させ、さらに絞りだした酒らしい。 「アルコール度数が低いから、運動の後に飲むのにちょうどいいんです。適度にタンパク質も補給できますしね」 「へー、なるほど」 いくらアルコールが低いと言っても、元来、酒に弱い私には飲みつけないお酒はすぐに酔いが回る。量は控えめにしておこうと思った。 「お肉がきましたよ」 最初に運ばれてきたのは、タン塩、カルビ、ロースが盛り合わせになった皿だった。つやつやとした赤色の肉が目の前に置かれただけで、私は幸せな気分になる。 「自己責任ですよね」 京子の唐突なひと言に私は戸惑う。 「えっ、何ですか?」 「石岡先生は自己責任の意味をご存知ですよね」 「はあ…?」 これから美味しく焼き肉をいただこうという時に、何やら難解な法律用語を持ち出された気分で、私は返す言葉がない。 「通常解釈されている自己責任の意味は、よく金融商品の売買で用いられます。購入する商品や購入先を自分で選択できる自由がある。その権利を持つ代わりに、結果としてもたらされる利益だけでなく、損失も含めて責任を持つ。さらに言うと、人は自分の負うべき責任のみを負えばよく、他人の責任まで負うことはないんです」 私には京子の話の行方がどこなのかさっぱりわからない。 「日本の社会では、複数で焼き肉屋に入ると、その中の女性が肉を焼く係を受け持って、全員にいい按配に肉が行き渡るように気を使わなければならない慣習があります」 「ああ、よく見かける風景で……」 「冗談ではありません」 京子がズイと前に身を乗り出し、私は反射的に体を後ろに倒す。 「差別ですわ」 「は、はい」 「会食する際に、女性は給仕を務めなければならないなんて、明らかに差別的だと思いませんか?」 「まあ、言われてみればそんな気も…」 「私は認めません。そのような屈辱的な役割を担わされることを拒否します」 「ええ、もちろん…」 そう言えば、先ほどマッコリが運ばれてきたときも、京子は自分のグラスだけに注いで、私は手酌をするハメになった。女性がお酌をするという発想も、彼女に言わせれば差別なのだろう。 「ですから、お肉を焼いて自分の取り皿まで持ってくることは、自己責任ということにしましょう。私は自分の食べたいお肉を選び、網に載せ、好きな焼き加減で皿に運びます。石岡先生も、どうかご自分のペースで召し上がってください」 「わ、わかりました」 たかが焼き肉をめいめい焼いて食べるという行為に、自己責任まで持ち出して、怖い迫力で主張しなくてもいいのに、とは私は口に出せなかった。 「さあ、ではモリモリと食べましょう」 「そうですね」 私の胸が高鳴る。やっと、ようやく、いよいよ焼き肉を現実的に口にできる機会が訪れたのだ。まずはタン塩から食べようかと箸を伸ばした瞬間、私の胸ポケットの携帯電話が鳴り出した。 |
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