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「石岡君、元横綱と試合をする」4 優木麥 |
| 円陣は解かれた。私も覆面のセコンドのひとりとなった。いま、青コーナーに立っているのは、まごうことなき本物のミステリーマスクだ。大塚は右手を天に向かって雄々しく突き上げると、ガウンを脱いだ。鍛え上げられた肉体が露出する。あらためて言うまでもないことだが、私とは比べ物にならない筋肉の質と量だ。 私は反対側のコーナーにいるレーナに視線を向けた。彼女は口に手を当てて、ポカンと表情が固まっている。ついさっきまで、身代わりである私の演ずるミステリーマスクだったのが、セコンドに囲まれてガウンを脱いだら本物の大塚が演じるミステリーマスクに替わっていたのだ。まるでマジックを見た気分だろう。 「ミステリー、ミステリー!」 観客の声援が一段と高まった。私はロープをくぐってエプロンサイドに出る。珍しく興奮していた。もしかしたら自分が戦うかもしれなかったリングから、やっと解放されたのだ。 「腰は問題ないの?」 コーナーにもたれかかる大塚の耳元で私がささやく。彼は力強くうなずいた。 「ベストコンディションです」 私もうなずく。これで不安要素は何一つない。あとはリングの上で大塚が答えを出してくれるだろう。私はリングの下に下りた。 「本当にお疲れ様でした石岡先生」 若宮が私に頭を下げる。長い二日間だった。ミステリーマスクの代理を務める役目をどれだけ果たせたのか、自分でもわからない。しかし、こうして大塚をリングに立たせることはできた。とはいえ、1人で安堵しているわけにもいかない。 「まだだよ。試合はこれからなんだから」 私は自分に言い聞かせるように気を引き締めた。元来、暴君竜対ミステリーマスクが大きな差のあるマッチメイクに変わりはないのだ。 232.5キロ対60数キロ。 元横綱対無名の格闘家。 私が代理で試合をするのは問題外だとしても、大塚とて勝てる可能性の薄いことは否定できない。だが、彼には戦う資格がある。今の私にできることは、試合中の彼に力の限りの声援を送ることだけだ。 そして、運命のゴングは鳴った。 ● 赤鬼が金棒を振り回している。あるいは巨熊の振り下ろす一撃。 暴君竜のパンチが空を切るさまは、まさにそんなイメージだった。あの直撃をまともに受けたら、冗談ではなく首の骨がどうにかなってしまいそうだ。 「おおつ……ミステリーマスク、集中しろ!」 試合開始から、私は何度も「大塚」と呼んでしまいそうになりながら声援を送る。つい先ほどまで自分がミステリーマスクと呼ばれていたので、切り替えが難しい。 「やっぱり暴君竜の強さはケタ違いですね」 若宮が感嘆の言葉を漏らす。彼女の言葉を聞くまでもなく、この試合を見ている者は誰もが同じ感想だろう。人間離れした怪力と、その巨体に似合わぬスピードに大塚は苦戦を続けている。俊敏に動いて何発かパンチやキックを当ててはいるが、大塚のウエイトから放たれる攻撃は、暴君竜にはさほどのダメージにならない。それより、暴君竜の絶大な破壊力ある攻撃から身を交わすのに注力せざるをえない。 「それにしても、よかったですね石岡先生。あの暴風雨のようなパンチの中に、もしかしたら立っていたかもしれないんですから」 「他人事みたいに言わないでください」 私は本気で怒りたくなる。首の後ろが寒い。大塚だからこそ持ち前のスピードで何とかしのいでいるが、もし私が彼の代理でリングに立っていたら、最初の一撃で終わりだろう。どれぐらいの怪我を負っていたか想像もしたくない。 「まるで弁慶と牛若丸だね」 拳を交える大塚と暴君竜の姿は、まさに現代の五条大橋だ。暴君竜の振り回す豪腕は、肉の薙刀である。今のところ大塚は牛若丸よろしく、攻撃の暴風雨にさらされながらもダメージを受けていない。だが、無傷でこのリングを降りることは難しそうだ。 「あ、危ない!」 若宮が叫ぶ。私がリングに視線を戻すと、暴君竜の脇を通り抜けようとした大塚の顔に、狙っていたかのようなパンチが繰り出された。反射神経で何とか首を捻って避ける大塚だが、側頭部を拳がかすめた。 「ミステリーマスク!!」 思わず私は悲鳴を上げた。かすっただけに見えたのに、大塚は転倒する。この試合初めてのダウンである。 「ヤバイ。本格的にヤバイ」 セコンドのトレーナーがあきらめたようにつぶやく。この試合は総合格闘技ルールなので、選手が倒れてもそこでダウンカウントなど数えない。だから、倒れた選手はすぐに起き上がれなければ、さらなる攻撃を食らうのだ。 「立て、大塚君。立て!」 もはや私はミステリーマスクなどと呼称に気が回らない。230キロ以上の巨体にのしかかられたら、それで試合の行方は決まったも同然だ。 「フィニッシュー!!」 暴君竜が叫びながら、倒れた大塚の上に襲いかかる。誰もが目を閉じたくなる一瞬、大塚は身体をゴロゴロとすばやく転がすと、距離をとって立ち上がった。間一髪、絶望的な攻撃からは逃れたのだ。 「私、心臓が止まりそうでした」 クールな若宮でさえ、顔が紅潮している。以前、大塚がピンチであることに変わりはない。頭に受けた一撃で、スピードが落ちれば、暴君竜の餌食である。 カーンッ!! ゴングの音が鳴り響く。第一ラウンド終了だ。熱狂的に声をあげていた大観衆から一様にため息が漏れる。大塚からすれば救いの鐘だった。 「石岡先生、ダメかもしれないです」 荒い息を整えながら大塚はそう言った。コーナーで椅子に座ってうなだれる彼を見る私の胸に抑えようのない激情が湧き上がった。私はリング内に入ると、彼の正面にしゃがんで叫ぶ。 「君がそんなに弱音を吐いてどうするんだ。あんなに大きな、あんなに強い元横綱の暴君竜と、たった一人で戦う。小くて、無名の格闘家ミステリーマスク。自分もその勇気が欲しいと、いま日本中のファンが注目してるんだぞ」 「石岡先生……」 「一緒に戦ってるんだ。もちろん勝負だから、負けることもある。でも、今の君はまだ試合が終わってないのに、気持ちで負けてるじゃないか。闘志が萎えてる」 「落ち着いてください石岡先生」 大塚のジムのトレーナーが私の肩に手をやる。しかし、私は言わずにはいられない。途中で投げ出すような人間のために、覆面の代理を務めていたわけじゃないからだ。 「大塚君、この試合はもう君だけのものじゃないよ。必ず勝てなんて無責任なことは言わない。でも、負けは試合のゴングが鳴るまで決まらないんだ。最後まで勝利をめざしてくれ。君はミステリーマスクなんだよ」 いつしか私の目から涙がこぼれていた。大塚はじっと私を見つめている。ここで、さらに言葉をかけなければならない気がした。しかし、私に技術的なアドバイスのできるわけがない。 「弁慶に勝つのは、牛若丸だよ」 1ラウンドの最中に感じたイメージを口にした。とにかくインターバルに沈黙する時間を作らないためだった。大塚の士気が一ミリでも高まればそれでよかった。大塚の目の輝きが打って変わっていた。 「ありがとうございます石岡先生。オレ、やってみます」 「セコンドアウト、セコンドアウト」 私たちはリングから降りる。若宮がニヤニヤして言った。 「さっきのセリフ、どこかで聞いたような気がするんですけど……」 確かに「あんなに大きな暴君竜と戦う、小さなミステリーマスク」の話は、元々、彼女に私が励まされた言葉だ。 「いいじゃない。本人は初めて聞くんだし」 ゴングが鳴った。2ラウンド開始だ。ミステリーマスクの動きが今までと違う。暴君竜の攻撃をただ避けるのではなく、ロープと相手との距離を測りながら、何かを狙っていた。暴君竜のパンチが空を切る。やや大振りな一撃だったため、巨体の体勢が崩れた。その瞬間、大塚は電光石火の動きで、最上段のロープに飛び乗り、反動をつけて暴君竜めがけて飛ぶ。そして、暴君竜の後頭部に右足を叩き込んだ。場内は大歓声である。 「いいぞ、大塚君」 握った拳を振り回して私も喜ぶ。その後は、スローモーションの映像を見ているかのようだった。巨木が引き倒されるごとく、暴君竜が前のめりに倒れたのだ。千載一遇のチャンスを見逃す大塚ではない。すぐさま倒れた相手に駆け寄り、右腕を腕ひしぎ逆十字固めを仕掛ける。ほぼ無抵抗の暴君竜にはなすすべがない。レフェリーは暴君竜にギブアップの意思を確認する。なかなか応じない。 「あっ、鳩?」 リング上に舞った白い影を見た私は、最初にそう思った。しかし、この会場に鳩がいるはずがない。正体は白いタオルだった。暴君竜のセコンドのレーナが、試合を止めるためにタオルを投入したのだ。レフェリーがゴングを要請する。 「勝者、ミステリーマスク!!」 私の目の前で、大塚が高々と右手を上げられている。その姿がかすんだ。涙があふれ出る。一体、今日の私は何度泣いているのだろう。構わない。一片も恥ずかしい気持ちはない。 「石岡先生のアドバイスが利きましたね」 興奮した若宮が耳元で叫ぶ。大観衆の声援で隣の人間の言葉も聞き取れないのだ。 「五条大橋で牛若丸が弁慶に勝ったのは、橋の欄干という高さを生かして、縦横無尽に飛び回ったからです。リングのロープを利用する発想はまさに……」 「ゴメン、若宮さん。あとでね」 私はリングに飛び込んでいた。大塚に飛びつく。ミステリーマスクの覆面越しにも、彼の顔が涙で濡れていることがわかった。 「勝ったよ石岡先生。オレ、勝ったよ」 「うん、うん」 私たちにトレーナーや若宮も抱き付いてくる。歓喜の声は鳴り止まない。 「あ、暴君竜だ」 ダウンしていた暴君竜がいつのまにか立ち上がって、私達の傍にいた。しばらく鋭い目で、大塚を睨みつけたが、やがて穏やかな表情を見せた。 「やるじゃねーか。若いの」 「兄さん、実は……」 セコンドのレーナが意を決したように話し出したが、暴君竜は手を振って遮る。 「負けちまったからなあ。オレは何にも言えねえよ。妹をよろしくな」 次の瞬間、大塚は深々と頭を下げる。暴君竜はミステリーマスクの正体が大塚だと知っていたのだ。 「よかったね大塚君」 私は万感の思いを込めてそういった。本当に長い二日間だったが、いますべては終わったのだ。 「まだですよ石岡先生。あとひとつ、大事なことが残ってるじゃないですか」 大塚が満面の笑顔だ。 「何だったっけ?」 「例のヤツですよ。ちょっとマイクを貸してください」 大塚はマイクを掴んで、こちらに笑いかける。ようやく私は思い出した。彼は、試合に勝ったら観客と一体化するために、ある儀式をやると言っていた。 「今日は応援ありがとうございました」 マイクで言うと、大塚は一礼した。 「僕がこのリングに立てたのは、本当に、本当にたくさんの人達の協力のおかげです。そのおかけで勝てたと思っています。この試合を見てくれたみんなにとって、来年がいい年でありますように、例のポーズをやってもいいですかー?」 大きな反響があった。期待が熱気となって伝わってくる。 「それじゃあ、皆さんご起立ください」 私も大塚の隣に立つ。これからの一生で、二度とない年越しになるだろう。 「いきますよ、3、2、1、ミステリー!」 最高のフィナーレだった。 |
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