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「石岡君、腰痛を克服する」3 優木麥 |
| この治療院には化け猫がいる。常識的な概念をはるかに超えた現象に私は歯の根も合わないほど怯えてしまった。 「そんなバカな……」 「まさかとは思うけど、石岡先生がリリアンを轢いた車の運転手じゃないよね?」 「やめてください」 冗談にもほどがある。私の気も知らずに、安西はカラカラと笑っていた。 「その後、また野良猫が現れたよ。今度はワシはフレディと名づけた。クイーンのフレディ・マーキュリーから命名し……」 「もうネコのお話は結構です」 「そうですか。石岡先生、では気分を変えましょうや。気持ちが固くなっていると体もコチコチだから。そうなるとワシが頑張っても効果が出にくい」 「すみません」 「いやいや、気を緩めてもらうには、なんか華やかな映画でも流しますかね」 「是非お願いします」 この暗い診療室の中ではどうも気が滅入ってしまう。アハハと笑える映像が流されるなら、気が紛れるだろう。 「ちょっと、この中から石岡先生が選んでください。ワシの自慢のライブラリーからね」 私は顔を上げて、安西が示すビデオラックを見た。そこに並んでいたタイトルは「呪いの銀猫」「秘録怪猫伝」「亡霊怪猫屋敷 怪猫お玉が池」「怪猫からくり天井」「怪猫五十三次」「怪猫佐賀の夜桜」「怪猫呪いの壁」「本朝怪猫伝」……。 「あ、あの……」 「どうじゃね。マニアックなセレクトじゃろ。これだけ集めるにはね。どれだけ…」 「いえ、その……他の作品はありませんか?」 リリアンという化け猫の話をさんざん聞いた後に、化け猫映画を流されたら、私は一生トイレに一人で行けなくなるだろう。 「あ、そう。お気に召さないか。ならば『吸血死美人彫り』と『首なし島の花嫁』ではいかがかな。どちらもワシにとっては……」 「すみません、先生。ラジオでもつけていただけませんか」 私はもっとも無難と思われる選択をした。自慢のコレクションを披露できずに安西は多少不満そうな顔だったが、部屋の角のラジオのスイッチを入れた。 「石岡先生は笑える話を求めてるんだろ」 「そうです。お願いします」 「じゃあ、噺家の講談でも聞くかね」 「ええ……」 「たしか、悶々亭木馬が『怪談 牡丹灯篭』をやってたはずだけど…」 安西が周波数を合わせると、おどろおどろしい音楽とともに、木馬の語りが聞こえてきた。 「夜になり、辺りが寝静まると、また遠くからポックン、ポックン…」 「や、やめて。変えてください。局を変えて。お願いします」 私は必死に懇願した。 「わかりましたよ。そんなに暴れないで」 安西はつまみを回す。 「DJ番組が一番です。お願いします」 私は安西の手を握って頭を下げた。安西は苦笑している。もはや今の私には恥も外聞もない。 「おっしゃる通りにいたしますで」 安西が周波数を合わすと「近藤チャッチャのハッピー・ラッキー」という言葉が聞こえてきた。 「それでいいです。その番組にしてください」 「では、濡れタオルを取ってきますで。動かないようにね」 安西が診療室を出て行く。ラジオの番組では、読者の投稿コーナーが始まる。 「さあ、火曜日のテーマは『私が出会ったこわーい話』。今日もハートがプルプル震えてきちゃう話がてんこ盛り盛りだよー」 私の心臓がビクンと跳ね上がる。 「まずは埼玉県のペンネーム血縛りモノさんからのお便りです。彼の職業はなんとタクシーの運転手さん」 「安西せんせー! せんせー!」 私は必死で叫ぶが、安西は現れない。 「深夜にタクシーを運転していますと、不思議な体験をいくつかいたします。今日はその中でもとっておきに怖い話を紹介させていただくとしましょう」 「あ、あんざーいせんせいー!」 私の声はかすれている。腰の痛みをこらえて、診療台から転がるように下に落ちる。 「……おかしいな。こんな夜更けの山道に、どうして若い女性が立っているんだろう。私はタクシーを止めながらそう思いました」 「助けてくれ。安西せんせー」 ラジオは部屋の隅にある。スイッチを止めるためには、私はゴロゴロと転がりながら、近づいていった。 「……乗せてから気がついたのですが、なぜか彼女はズブ濡れなんです。それもついさっきそうなったみたいに、髪の毛の先から水滴がポタリ、ポタリと……」 「あわあわわわ……」 もはや私の声は人語になっていなかった。しかし、このままでは恐怖の物語は私の耳に入りつづける。最後の気力を振り絞って、這うようにしてラジオに近づいていく。 「……『殺してやる』、確かに後部席の女性客はそう言いました。つぶやく声だったので、最初は何と言っているのかわかりませんでした。しかし、黒髪を振り乱して……」 「ひ、ひえー!」 ようやくラジオの側までたどり着いた私は、ほとんどぶん殴るようにしてラジオのスイッチを切った。室内は再び静寂に包まれる。床に転がっている私は、安心すると同時に、自分の脇に誰かが立っているのに気がついた。私の胃の辺りから電撃が垂直に脳を貫く感じがした。 「安西先生……ですか?」 私の問いに返事はない。失神寸前の精神状態ながら、私は首を捻る。見上げたその先に立っていた相手は、体の半分が内蔵剥き出しだった。 ● 「石岡先生、もう少し落ち着きなさいよ」 安西は紙コップに二杯目のハーブティーを注いでくれる。私はまるで雪山の遭難者のように毛布を被ってガタガタと震えていた。 「ウチでは、お客さんに説明するためにツボの位置を記した人体模型を置いてあるんですよ。この部屋に入ったときに気がつくでしょう普通は」 安西の言うことはもっともである。冷静になれば何でもない話だが、自分の気持ちが普通ではないあの状況では、ひどく錯乱してしまった。 「とにかく、ドッタンバッタンされましたのでね。腰の状態はかなり悪くなっています」 「すみません…」 「石岡先生のその腰では、治療をもう少し徹底的に施さなければなりません」 「はい…」 恐怖が去り、気持ちが落ち着いてくると腰の痛みがよみがえってくる。 「時間も遅くなってまいりましたしね。今日は当治療院にお泊まりください」 「えっ……」 私は即答しかねる。この治療院に来てから、怪奇現象の連発である。いや、本当に超常的なものが原因かはともかく、私にとってはそれに匹敵する恐怖が湧いているのだ。本音を言えば、一刻も早く退散したかったが、体が言うことを聞かない。起き上がって歩くのも一苦労の状態なのだ。 「では、お言葉に甘えまして…」 「そうなさい。ムリは禁物です。では、マッサージをし直しますので、仰向けに寝ていてください」 安西は、仰向けに寝た私の顔に白いタオルをかけた。 「眠ってしまっても結構ですよ。私は施術の準備をしてまいりますので」 診療室から安西が出て行った。また私が一人、室内に取り残される。心臓はドキドキ鳴っているが、私は目を閉じて他のことを考えようと勤めた。何も見ない、何も聞かなければ怖いことはないのだ。 「ジュゲムジュゲム、ゴコーのスリキレ……」 落語の「寿限無」を唱えて気持ちを切り替えていると、カタリと音が聞こえる。そして、その後に「キャアアアアアー!!」と女性の悲鳴が響いた。私は失神しない自分を誉めてやりたかった。でも、軟弱者と言われても、気を失う方がどれだけラクになるだろう。 |
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