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「石岡君、おしゃれなバーで待ち合わせをする」1 優木麥 |
| 私の人生とは無縁の世界だと思っていた。六本木のバーで待ち合わせをする。そんな粋な行為が許されるのは、青いワイシャツにサスペンダーをした男か、葉巻とサングラスの似合うハードボイルド作家だけの特権だと考えていたのだ。しかし、今夜の私と里美の待ち合わせ場所は六本木のバーの「モンキーフリップ」。もちろん、3日前にその提案をされたとき、私は難色を示した。 「六本木のバーで待ち合わせなんて……ぼくは着ていく服がないよ」 「大げさに考えないで。普通の格好でいいの」 里美は平然としているが、私は不安でたまらない。 「喫茶店か、コーヒーショップでいいよ」 「ダメ。せっかく六本木で会うんだから、それらしいところに行きましょう。石岡先生は雰囲気に合うと思うし」 「ミスマッチだよ。六本木って有名なディスコがあって、外国の人が一杯いる場所だろ?」 「あまりにも類型的なイメージだけど、当たらずとも遠からずね」 「一度、ヒドイ目に遭ってるんだ」 私は以前、六本木で喉が渇き、喫茶店で休むことにした。あまり、店名など気にせずに『○○喫茶』と書いてある店に入ったのだ。私は一人だったのでウエイトレスから「どこでもお好きな席を」と言われて、大テーブルに相席で座った。他の空いているテーブルはみな4人掛けだったので、気を使ったのである。 「石岡先生らしいわね。でも、それのどこが問題なの?」 「大問題だよ」 私は説明を続ける。しばらくすると、その大テーブルだけにお客が集まり始めた。他にも空いている席があるのに変だなと私は少し訝しく思う。そのうち、金髪の若い白人がクリップファイルを小脇に抱えて、中央の席に着いたのだ。その若者を大テーブルの客達は拍手で迎えた。 「石岡先生はどうしたの?」 「もちろん、同様に拍手をしたよ。なぜだか全然わからなかったけどね。そしたら、その若者が……」 「イングリッシュのレッスンを始めましょう、と言ったんでしょ?」 「どうしてわかるんだい」 「想像がつくわ。その喫茶は、いわゆる英会話喫茶ね。英語を話したい日本人や、外国人が集まる憩いの場。普通の喫茶店とは違うのよね。それで、石岡先生の座った大テーブルは、レッスンをする場所だったのよ」 「そうなんだよ。参った」 今でも私はその場面を思い出すと冷や汗が出る。真相は、里美が説明した通りだが、当時の私には何が何だかわからない。事態が把握できないまま、進行していったのだ。 「今日は、初めてのお友達がいますね」 英語の先生役の若者は、私を見てそう言った。 「では、簡単で結構ですので、イングリッシュで皆さんに自己紹介をしてください」 その時点でようやく私はこの席がどうやら英会話のレッスンをする場所だと気づいた。顔が真っ青になった私は、慌てて手を振る。 「ご、ごめんなさい。ぼくは間違えまして……」 すぐに立ち上がろうとする私を、講師が押し止める。 「プリーズ、ウェイト。プリーズ」 「い、いや、しかし……」 「一緒に勉強しましょう。楽しいですよ」 周囲の受講生も笑顔で私を引き止める。その雰囲気の中で、強引に席を立つことは私にはできなかった。 「レッスンを受けたのね?」 里美はキャッキャッと笑っている。 「うん。自分が何を話したのかよく覚えてないんだ」 とにかく、確かに記憶にあるのは、この場から溶けて消えてしまいたいという強い願望だった。 「だから、話を戻せば、六本木はぼくにとっては足を踏み入れてはならない禁断の地だと思っていて……」 「そんなわけないわ」 「ましてや、バーなんて行ったら、どうなるか予測もつかないよ。南極に海水パンツで放り出されるようなものかも……」 「大丈夫よ。私も一緒じゃない。たぶん、先生より私が先に着いて待ってると思うから、心配しないで」 ● 人生にはアクシデントがつきものだ。その日、約束の時間に六本木の「モンキーフリップ」に足を踏み入れた私は、最悪のアクシデントが生じたことを思い知らされた。 「いらっしゃいませ」 隙のない立ち振る舞いのバーテンダーがドアを開けた私に声をかける。 「あ、あの……」 店内は広くない。10人程度のカウンター席と、テーブル席のボックスが2つだ。つまり、入り口から全体が見渡せるのだ。そして、私の視界から把握できる情報は、ただひとつ。客が無人であること。席に誰も座っていないのだ。 「お待ち合わせですか?」 気を利かせたバーテンダーが先に尋ねてきた。 「は、はい。まだ……のようです」 誰がどう見てもそう答えるしかない。 「お待ちになられますか?」 物腰やわらかく言われると、私は嫌とは言えないのである。 「はい。そうします」 すると、バーテンダーはカウンター席の真ん中にコースターを置いた。つまり、そこに座れということだろう。私はたじろいでしまう。もっと端の席が良かった。考えてみれば、この状態はバーテンダーと一対一で対峙しなければならない。もっとも避けたかった状況である。だが、席を移して欲しいとは口に出来ないのが、私という人間なのだ。 「何をお飲みになりますか?」 スツールに腰かけた私にバーテンダーが尋ねる。またもやピンチの到来だ。いつもは里美が飲み物の説明をしてくれるので、その中から適当なものを選んでいる。しかし、今はたった一人。この後、食事を控えているので、そんなに強い酒は飲まないほうがいい。本音をいえば、ビールが飲みたい。だが、六本木のオシャレなバーである以上、ウイスキーを頼むのが常套なのだろう。 「ア、アーリータイムスを……」 必死にハードボイルド小説の主人公の言動を思い出していた。確か、西海岸を舞台に活躍する、その銘柄が好きな探偵がいたはずだ。何とか危機を切り抜けたつもりの私だったが、バーテンダーは一瞬きょとんとした表情をする。 「すみません。アーリーは当店には置いてございません」 予想外の答えに私はどぎまぎする。 「バーボンがよろしいでしょうか?」 「いや、別にその……」 まったくこだわりはない。私はバーテンダーの背後にある棚に視線を走らせる。何か記憶に引っかかるようなボトルがあれば、それを指定しようと思ったが、焦っているせいかどれも同じに見える。 「当店はスコッチウイスキー、とくにシングルモルトに自信があります。一度、お試しいただくのはいかがでしょう」 「それでお願いします」 私は大きく息をついた。やっとオーダーを済ませることができた。そのとき、私の携帯電話が鳴る。相手は里美からだった。 「もしもし、石岡先生」 「遅いよ。里美ちゃん。今どこなの?」 「ごめんなさい。まだ打ち合わせが長引いちゃってて。もう少しかかりそうなの。しばらくその店で飲んでて」 「えっ、そんな……」 このバーでバーテンダーと二人きりで過ごすことは、私には威圧感と圧迫感が大きすぎて潰れてしまいそうだ。 |
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