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「石岡君、バレンタインにチョコを贈る」 3 優木麥 |
| 「真吾君、心配かけちゃってゴメンなさい。もう大丈夫だから」 私は笑顔でそう言うと立ち上がろうとした。まだ少しめまいがして、足がふらつく。 「石岡先生、せっかくだから一緒に夕飯を食いましょう」 好井が言う。私は彼らの好意に甘えることにした。懐かしいちゃぶ台の上に水炊きの鍋が置かれた。 「世界戦のタイトル奪取を祈って、カンパーイ」 好井と私はビールで、真吾はウーロン茶でグラスを合わせた。 「石岡先生、オレ、左アッパーが得意なんですよ」 真吾がビールをお酌してくれながら言う。世界タイトルを狙う選手にそんなことをしてもらって、私は頭を下げた。 「なんか名前つけてくれませんか。必殺技みたいな名前」 「えっ、ぼくが?」 「ああ、そりゃあいい。是非お願いしますよ。コイツの稲妻みたいな左アッパーにいい名をつけてやってください」 好井の〃稲妻〃という単語に、私は閃いた。 「それなら、エクレアというのはどう?」 「エクレアって、あのケーキのですか」 「そうだよ。フランス語で稲妻という意味だし、スウィートハニーのイメージにもピッタリじゃない」 真吾はすぐにうなずいた。 「わかりました。じゃあ、エクレアにします。オレのエクレアでチャンピオンを倒します」 「そうだ。ワシのマーボーナスも絶品ですよ」 ちゃぶ台の周りには、好井、真吾、そして私が座る。真吾は好井の家に居候しているのだ。 「デビューした最初の頃は、一人暮らしさせていたんですけど、コイツ太りやすい体質のクセに食事のコントロールが出来なくて。だから、家に住まわせて、キッチリ面倒見てやることにしたんです」 コップ一杯のビールで顔を赤くした好井が言う。食事のコントロール、つまり減量のことだろうか。よくボクシングの映画では試合に向けて体重を落とすために極限のストイックな生活をする選手の様子が描かれている。 「でも、減量というのは軽い階級の選手がやることじゃないんですか?」 ポン酢につけた鶏肉は本当に美味しい。しかし、真吾の前にはトマトサラダと秋刀魚の塩焼きが置かれている。彼の試合前の特別メニューなのだろう。たぶん、好井は毎回、料理を二種類調理しているものと思われる。 「いやいや、ボクサーには自分のベストウェイトがあるんですよ。自由に動けて、なおかつ威力があるパンチの打てる体。そのコンディションを作り上げるには、階級の軽い重いは関係ないです。真吾は甘いものに目がなくてね。試合前の一ヶ月間は厳禁してるもんだから、試合が終わるとアホほど食うんだ。それで、ブクブクして、試合のときに体重を落とすのに苦労してる。わかってるのに、何回もくり返すよなあ」 好井の言葉に真吾は恥かしそうにうつむいた。ふと私は彼がかわいそうに見えてしまう。ボクシングという好きな競技を続けるためとはいえ、好きなものを禁止される生活。それは幸せなのだろうか。 「石岡先生。コイツのことは気にしないでドンドン食べてくださいよ。今日の取材も先生がセッティングしてくれたそうで、本当に真吾は幸せものです」 好井はそう言うが、食事制限している真吾の目の前で肉や酒を気兼ねなく口に入れるのははばかられる。私は自分の考えを言ってみることにした。 「会長、素人が差し出がましいことをと思われるかもしれませんが……」 「何でしょうか」 「甘いものを禁止ではなく、制限するわけにはいきませんか?」 「どういう意味ですか」 「糖分というのは、脳に送られる唯一の栄養だそうです。なので、運動選手が試合中にバナナを食べているのは、空腹を満たしているのではなく、集中力を切らさないために脳にエネルギーを補給しているんです。その意味では、真吾君もほんの少しはチョコレートでもケーキでも食べるようにしてもいいと思うんですが……」 「ほう…」 素人が口を出すなと怒鳴られるかとも思ったが、好井はビールのグラスをちゃぶ台に置いて考え込んでいる。 「それに、真吾君が甘いものが大好きであるなら、厳しい練習や試合前のプレッシャーなどのストレスを解消する意味でも、少々の甘味を摂ることは許されてもいいのではと考えるのです」 腕組みをしてじっと考え込んでいた好井はキッと私を睨んだ。 「石岡先生!」 「は、はい…」 「あんたは、本当に真吾のことに親身になってくれてるんだね」 「まあ、その……」 「ワシは嬉しいよ。うん。たまらなく嬉しい」 あふれ出る涙を好井は手の甲で拭う。 「ワシは古いタイプの人間で昔ながらのやり方しかわからんのです。選手を追い込んで追い込んで強くしようと考えがちなのですが、何かを失っていたのかもしれませんなあ。承知しました。先生のご意見に従いましょう」 「あ、いえ、そんなに簡単におっしゃられると……」 私のほうが恐縮してしまう。 「真吾、オマエは果報者だぞ。こんな大先生に見込まれてるんだから」 「ハイ、石岡先生。オレ、絶対に勝ちます」 「そうだよ。勝てるよ」 私は力強くうなずいた。好井がビールをグイと呷ると、真吾を見る。 「そうと決まれば、今日の分のチョコを齧れ、真吾。それには例のモノを先生にお見せしないとな」 真吾は何かを取りに部屋を出て行った。好井があらたまった様子で、私に向き直る。 「石岡先生、あらためてお礼を申し上げますよ」 「とんでもない。生意気な口を挟んですみません」 「18歳で真吾がウチのジムに入門してきたとき、アイツはどうしようもないワルでした。非行ぶりを見かねた親が、まるで更生施設に入れるようにウチに連れてきたんです。でも、ワシはあいつの目を見たとき感じました。コイツは飢えている。何に飢えているのかはわからん。だが、ワシか、店の仕事か、ボクシングか。この3つのどれかはアイツの飢えを満たしてやれるんじゃないかと思った」 好井と出会えた真吾は、最高のめぐり合いをしたと言える。現在の好青年の彼からは、荒れていた当時の面影はない。 「スウィートハニー真吾と命名したのは、ワシです。みんなに愛されるボクサーになれという意味で付けました。甘いもの好きで、洋菓子屋で働いているヤツのイメージにもピッタリだしね。今では息子のように思っております。それでも、ワシは今度のタイトル戦が不安で仕方ないんですよ」 「なぜですか?」 「まあ、こんな話を会長のワシがしていいのかわからんけども、チャンピオンのジャグラー・バレンタインはとてつもなく強い。アメリカの選手でもうライトヘビーのベルトを七回も防衛している。テクニック、スピード、インサイドワークのどれを取っても真吾のほうが負けていますよ」 「好井会長…」 私はボクシングを知らないため、あまりにも衝撃的な発言に聞こえる。 「たぶん10回戦えば、9回は真吾の負けでしょうね」 私は言葉を失っていた。そこまで不利な状況だとは知らなかったのだ。 「だけど、勝負はやってみなければわからない。10分の1の勝利が、今度のタイトルマッチの結果にならないとは限らんわけですからな」 好井は自分に言い聞かせるようにそう言うと、グラスのビールを空けた。室内の空気は一気に冷えていた。そこへ、ダンボール箱を抱えた真吾が戻ってくる。 「石岡先生、これを見てください。オレの自信作なんです」 「なんだい」 私は沈んだ雰囲気を真吾に悟られまいと、わざと明るく振舞った。ダンボール箱の中には何十個ものチョコレートが詰められている。 「明日から店で『打倒バレンタインキャンペーン』をやるんです。それで、オレのデザインで特製チョコを作りました」 真吾は誇らしげに私にそのうちのひとつを見せる。バレンタインとは、対戦相手の世界王者、ジャグラー・バレンタインのことを指すのだろう。 「ハート型だね。良く出来ているよ」 「勘弁して下さい。ハートなんてそんな軟弱なデザインじゃないです。これはボクシングのグラブをイメージしたんですよ」 「あ、そう…なんだ」 「グラブに見えませんか?」 「いや、見えるよ。さっきは角度が違ったから…」 何とかごまかしたが、私の目にはどうしてもハート型に見える。ひとつずつ袋詰されたそのグラブ型チョコの表には「LOVE」と浮き彫りにされていた。 「ボクシングのグラブ型のチョコにオレの『ボクシングLOVE』を表現してみました」 「いいんじゃないかな」 私は無難にそう言った。 「キャンペーン期間中に、この特製チョコを千人に食べてもらおうと思うんです」 「えっ、千個も作ったの?」 「はい。千羽鶴とか、千人針とかあるじゃないですか。一種の願かけですよ。試合前って、ナーバスになっちゃって。みんなからエネルギーをもらいたいと思うんです。それが、今回はこの『打倒バレンタイン チョコ千人キャンペーン』ですね」 「千人かあ。よし、じゃあぼくが20人分ぐらい担当するよ」 私は、つい勢いでそう口走った。好井会長にタイトルマッチの不安を聞かされた今、私のできることは何でもしようと考えていたのだ。 ● 「いやあ、素晴らしい原稿をありがとうございます」 ボクシング体験をレポートした原稿を読み終えた曽田は満面の笑みでそう言った。取材時に失神した私を置き去りにして引き上げた負い目があるのか、彼は直接原稿を取りにきたのだ。 「曽田君、例の件なんだけど……」 私の問いかけに曽田は怪訝そうな顔をする。 「このまえお願いしたでしょう。『体育会系第3惑星』の第4号が欲しいって」 「ああ、ハイハイ。すみません。版元の出版社が倒産してしまっているもんですから」 私が真吾の相談に誌面で答えたという雑誌は、手元になかった。休刊と同時に倒産というバタバタの中で私には献本されなかったらしい。 「でも、石岡先生。なぜ急にそんなことをおっしゃるんですか。やっぱり、あのことを怒っていらっしゃるとか」 曽田の言葉の意味が私にはわからなかった。 「あのことって言いますと?」 |
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