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「石岡君、ファミレス店長になる」2 優木麥 |
| 「当店にはスパイスの達人がおります」 店員は胸を張って言った。よく見ると、その胸ポケットに付けられたプレートには「店長 木口」とある。彼はこのファミレスの店長だったのだ。ということは、この広い店内を現在、彼ひとりが切り盛りしていることになる。大変な労力に見えるが、私だけしか客がいない以上、問題はない。 「そもそもスパイスの調合は文化です。とても一朝一夕にかなうものではありません。19世紀、インドを支配したイギリス人たちも同様です。そこで彼らは自分たちの好みのスパイスをミックスして、手軽に使えるようにしました。それがいわゆるカレーパウダーの始まりと言われています。しかし、本来、スパイスは有りモノを使うのではなく、その調合にこそ妙が有るはず。もっとも一般的なミックススパイスであるガラムマサラにしても、インドの家庭では、それぞれ味が違うと言われていますしね」 店長の木口によるカレーの講義はまだ終わりそうになかった。ということは、必然的に私の注文したアイスティーも運ばれてこない。まだオーダー自体が厨房に通っていないのだから当然だ。ひと時の涼を求めてファミレスに入ったのに、なぜこんな目に遭うのか私にはわからない。 「しかし、当店では本場でスパイスの調合をみっちりと修行してきたシェフが、オリジナルレシピによって最高のカレーをご提供しています。いかがですか、お客様。カレーをお試しになりませんか」 どうあっても木口は私にカレーをオーダーさせたいようだ。 「しかし……その…暑いですからね」 断る私は段々と弱々しい口調になっている。 「暑い? ですから、カレーをオススメしているのです」 木口はテーブルを叩かんばかりの勢いだった。 「スパイスを多用した辛い料理がよく食べられる地域をご存知ですか?」 「えっ、インドとか、タイとか…」 「おっしゃる通りです。東南アジアを始めとして暑さの厳しい国が多いでしょう。それは何を意味するかおわかりですか?」 エアコンの効いたファミレスの店内であるはずなのに、私は汗をかき始めていた。なぜ一杯のアイスティーにありつくまでに、いくつものハードルがあるのだろう。木口との論戦を制さなければ、オーダーが通らない気がしてきた。 「香辛料を使った辛い料理には発汗作用があるからです」 汗をかくことは、体温が上がり過ぎないように調節するためだと知っている。では、なぜ26度程度の室温の店内で、私の汗は止まらないのだろう。 「さらに香辛料の独特の香りや辛さによって、消化作用を促進しますし、食欲の増進にも力を貸しています。言ってみれば、スパイスを使った料理の王様であるカレーほど暑い日にふさわしい食べ物はないとさえ言えるのです」 「まあ、そうかもしれませんが……」 反論する理由を探す私の目が泳いでいる。もはやゲームセットかもしれない。 「では、この中からカレーをお選びください」 勝利を確信した木口がランチメニューを差し出す。うつろな目でそれを眺めた私は、震える指で日替わりカレーランチを指し示した。 ● 「美味しいですね!」 社交辞令ではなかった。木口があれほど本格的エスニックと強調していたので、辛さに難渋すると思っていたら、スプーンを口に運んだ瞬間、辛さだけに限らない何種類もの味が舌の上で広がっていく。これこそスパイスのマジックなのだろう。 「そうでしょう。当店自慢のスパイスミックスです」 テーブルの傍らに立って、客が食べるのを見ているのは正直に言えばいかがなものかと思うが、私は供されたカレーの旨みに次々とスプーンを動かす。ここ数日、暑さの影響で食欲不振の気があったが、一度に吹き飛びそうだ。 「味は申し分ないんですけどねえ…」 ポツリと木口の声が聞こえた。二人しかいない以上、聞こえない振りをするわけにもいかず、私は尋ねる。 「どうしたんですか? 何か問題でも」 「いえ、もうおわかりだと思いますが、ご覧の通りの閑散ですよ」 木口が店内を示す。私が入ってから20分近く経つのに、いまだに誰一人としてお客が来ない。ファミレス1店舗の維持費がどれぐらいか見当もつかないが、ランチタイムにこの有様では飲食店として成立しないだろう。 「削れるところから削るために、人件費は極限まで抑えてます。だから、店長一人なんて醜態を晒しているわけで…」 「いえいえ、そんなことは…」 私の右手のスプーンが急に重たく感じられてきた。美味しいカレーを味わうのにふさわしい話題ではないようだ。 「どうして、お客さんが集まらないんでしょうか。立地条件が悪いとか?」 この付近には喫茶店やファーストフードなど飲食店が見当たらない。それは、立地に問題があるからだろうか。しかし、あれだけ大きな駐車場を併設している以上、まったく入らないのは謎である。 「前任の店長が言うにはですね。コブラの呪いじゃないかって」 「コ、コブラ…?」 「ええ、何年か前、まだこの店が立つ前の空き地に不心得者が、毒蛇のコブラを捨てたらしいんです。まあ、見た者はいないんだけど、そんなウワサが流れて……。それ以降、この付近には人が近づかなくなっちゃったんですね」 「へー……」 にわかに信じ難い話だが、私の近所にもそんな風にウワサされている場所があれば、あえて足を運びたいとは思わないだろう。 「かろうじて、夜の営業では通りすがりの車が入ってきてくれるので、売上がゼロじゃないですけど…。まあ、今月も赤字なら本部から処分が下るでしょうね。それでもギリギリまで踏ん張ってみようと決めてるんですよ」 「ええ、そうです。あきらめないでください」 「ただどうしても、私にはやりたいことがありましてね」 「何ですか?」 話の流れから、尋ねないわけにはいかない。木口は意味ありげに私を見た。 「思いっきり寝たいんですよ。3時間でいいから」 よく見れば、彼の目の下には隈ができている。充血した目は睡眠不足の典型である。 「お客さん、私はここ3日間、全然寝てないんです」 「はい、それは……」 「もう限界なんですよ」 木口は感情を爆発させた。私自身、年齢に応じて徹夜は控えている。頭をクリアにしないと結局、能率が悪いだけだからだ。 「少し寝させてはもらえませんかね」 「あの、それはどういう……」 「つまり、3時間だけで構わないから、お客さんにこの店の店長をやってほしいんです」 「えっ…!」 私はのけぞりそうになる。考えただけでメチャクチャな提案だ。 「店番みたいなもんです。どっちみち、お客なんか夜まで来るわけありません。ただこの店内を無人にするわけにはいかないんです。お願いします」 「いえ、でも……」 気軽に引き受けられる話ではない。さっきのカレーを強引に頼ませられるのとは次元が違う要求である。 「ゴメンなさい。ぼくにはとても勤まりません。勘弁してください」 私の拒否の回答に、意外にも木口は笑顔だった。 「当たり前ですよね。一見のお客さんに店長になってくれだなんて。忘れてください。私がどうかしていました」 「いいえ、ご要望にお応えできなくて……」 「確かに睡眠不足で死んだ人はいませんしね」 木口は笑ったままで憑かれたようにしゃべり続ける。 「死ぬ前にどうしても眠ってしまうらしいですよ。でも、その直前は、まるで人が変わったように攻撃的になると聞きます」 「あの…木口さん……」 「明日の朝刊を楽しみにしてください。きっとこの店での暴力事件か、あるいは殺人……」 「本当に3時間だけですよ!」 私は覚悟を決めて叫ぶように言った。木口の顔が本当の意味でほころぶ。 「もちろんです。お願いできるんですか?」 「はい、店長をやらせてください」 どうせ、お客は来ないのだ。その見込みが甘かったことを、私は30分もしないうちに思い知らされることになる。 |
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