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「石岡君、焼き肉屋に行く」2 優木麥 |
| 「ネットントンの社長をしている柏原京子です。はじめまして」 ウインドブレーカーのポケットから京子は名刺を取り出した。 「こ、こちらこそ……」 私は名刺を受け取るが、まだ事情が飲み込めていない。ネットベンチャーを立ち上げた京子は、なぜマウンテンバイクのレース仕様のユニフォーム姿なのだろうか。私は女社長に会ったことがないので、もしかしたら彼女達の間で流行っているのかもしれない。 「遠いところをご足労いただいてすみません」 「いえいえ、とんでもない」 何気ない挨拶を交わしているが、私の胸の内では心臓の鼓音のペースが速まっている。 「でも、晴れてよかったですね」 「ええ、そうですね」 「悪路でこそ、マウンテンバイクの走破性能は発揮されるとはいえ、シティユースならあまり悪条件で走りたくないですからね」 「はあ、なるほど」 私はビクビクしながら相槌を打っている。なにしろ、京子の傍らには今自分が乗ってきたものとは別にもう一台のマウンテンバイクがあるのだ。私は必死で話題を変えようと思った。 「あの……シティユースって何ですか?」 「マウンテンバイクを市街地で乗り回すことです。なにしろ操作性がいいですからね。段差や何やも関係なく、快適に乗れますよ。シティユース、街乗りという意味です」 「そうなんですか、アハハ」 私の笑いが乾いている。この後に待っている過酷な自分の運命について、薄々は気付いていながらも、なるべくその瞬間を先延ばしにしたいのが自然な感情だ。 「でも、石岡先生の身長にピッタリのサイズでよかったですわ」 「えっ…」 「レース仕様なので、体に合わないと長い距離を乗るのはキツくなるんですよ。もちろんそれを走破してこそ達成感が生まれるんですけどね」 「柏原さん!」 私は思わず悲鳴のような声をあげた。 「そのマウンテンバイクは、ぼくが乗るためのものですか?」 怯えてばかりもいられない。この先に何が待ち受けているのか確認しておく必要があるのだ。 「ええ、そうです」 京子は事も無げに答える。 「ど、どうしてマウンテン…」 「焼き肉屋さんは、荻窪なんです」 「お、荻窪……まさか…」 「ご明察。これからマウンテンバイクでシティユースして、荻窪に行きましょう」 「無理です。絶対に無理です」 私は大声を出す。正確にはわからないが、ここから荻窪まで20キロ近くあるのではないか。 「石岡先生、美味しい焼き肉の食べ方をお教えすると申し上げましたよね」 「え、ええ…」 「その食べ方とは、単に食材の吟味やテクニカルな料理法だけを指しているのではありません」 京子の態度は毅然としたものだった。 「食べる者自身の態度やコンディションも大きく影響するのです」 「ハイ、それはそうでしょうけど…」 「肉の旨みは、狩猟して食すときに最大限に味わえるタイプだと確信しています」 「えっ…」 「自らの体を使い、その代償として肉を食べて自分の力とする権利がある。本来ならそう考えるべきなんです」 京子の目が少し怖い。 「ですから、本当に美味しいお肉を食べようとするなら、汗をかかなければいけません。疾走しなければなりません。その体の酷使の果てに、肉のありがたみと、旨みを享受できるとは思いませんか?」 「ええ、まあ…」 私は反論しにくい。京子の言葉には一理ある。ましてや、マウンテンバイクまで用意されては、あまり強硬に断るのも難しい。しかし、それでも私はせめて抵抗を試みてみた。 「ただ、ぼくは準備をしてきませんでしたので……。その、服装もこんなですし…」 初対面の相手とビジネスの話をするので、私は着慣れないスーツ姿でやってきたのだ。 「関係ないです」 京子は即座に断言した。 「ニューヨークでは、ヤングエグゼクティブ達が、通勤の足としてマウンテンバイクを使っているんです。石岡先生、スポーツはカッコウでするもんじゃないですから」 どうやら、一度地獄を見てこないと焼き肉にはありつけないらしい。 ● 「もう少しペースを上げませんか」 先行していた京子が立ち止まって、私が追いつくのを待ち、そう言った。もう三度以上、同じことを言われている。 「ある程度スピードを出さないと、マウンテンバイクの本来の楽しさは味わえないですよ」 なんと言われようと、私は返す言葉がない。論理的に反論できないわけではない。すでに東中野を過ぎた辺りから、私は息が切れ、まるで溺れかけた人が水面に顔を出しては喘ぐような呼吸をしていた。足はペダルを一周回すごとに筋肉の痛みが増し、すでにサドルから腰を上げる姿勢を保っていられない。あまりの苦しさに何度か足を着いて下りてしまった。 「体内脂肪を燃焼させるには、20分以上連続して有酸素運動をしなければ効果がありません」 京子がうつむいて荒い息をしている私に言った。 「石岡先生のように何度も立ち止まってしまっては、体内脂肪の燃焼にならないんですよ」 それは正しい意見なのだろうが、私にとってはどうでもいい。この苦しみから解放されるのなら、あと10キロ太っても構わない。 「先生、人間のもっとも偉大な力は、意思の力です」 私は答えられない。口から出るのは二酸化炭素ばかりで、言葉など出している余裕がないのだ。 「私が会社を興すと言ったとき、誰もが笑いました。お茶汲みとコピー取りだけやってきたOLに何ができるんだって。でも、私はいろんなことを勉強したし、異業種交流会で人脈も築いたし、専門家のアドバイスも受けて起業したんです。確かに、何もない人間だったかもしれないけど、意志の力だけは絶対に負けまいと思っていました。だから…」 京子が私の肩にそっと手を置く。 「石岡先生もくじけないで。意思の力で立ち上がってください。荻窪に行くと決めたら、何があろうと行くんですよ。まだここは、中野じゃないですか」 美味しい焼き肉を食べるという目的のために、意思の力を発揮するのは、なかなか難しい。なにしろ自分の体の限界は自分が一番良くわかる。本当にこれ以上走ることは、不可能だった。意思の力を使っても結果は同じだ。 「柏原さん…」 かろうじて私は声を絞り出す。 「ぼくは、街を自転車で走ることに慣れていないんです。だから、通行人とか、信号などが気になって、連続して走りつづけることが難しい…」 京子の表情にわずかに変化が見えた。 「20分以上の連続した有酸素運動をするには、ぼくにとっては、このシティユースは適切ではないんじゃないですか」 私の言葉を彼女はしばし考えたようだ。 「そうかもしれませんね。私にしても、石岡先生とペースを合わせることで本来の走りができなくなりますし…」 肯定する言葉を聞いて、私は安堵する。 「やはりエアロバイクのほうが合っていたんですよ」 「えっ…?」 「中野駅の近くに入会しているジムがあります。そこに行きましょう」 やっと見つけた地獄の出口は、次の地獄への入り口だったというわけだ。 |
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