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「石岡君、元横綱と試合をする」3 優木麥 |
| 入場ゲートをくぐった瞬間、最初の痛みを感じた。 肉体的な感覚ではない。爆発的な歓声に包まれたため、全身の肌があわだつような感覚にとらわれたのだ。これはスポーツ選手がよく口にしている“ヒリヒリする”感じなのだろう。この声援は私ではなく、ミステリーマスクに送られているものである。 次に感じた痛みは、胃だ。チクチクする、なんてレベルではない。焼けた鉄の塊を放り込まれたような痛みが、私の胃を襲っている。 場違いなところに来てしまった。私は神輿に担がれるような人物ではない。いや、それを言う前に、こんな華々しい舞台に出てくる人間ではないのだ。 「水平に保て。ゆっくりでいいから」 神輿を担いでくれているスタッフが口々に声を掛け合っている。実は担がれてみて初めて思ったのだが、決して気分のいいものではない。むしろ早く降りたい。それは人の上に立つなどという居心地の悪さ以上に、乗り心地がよくないのだ。30人の担ぎ手による人力のため、どうしても不安定であり、今にも落ちそうな恐怖を感じる。 「よし、止まるぞ」 「えっ、大丈夫ですか」 神輿が停止したので、思わず私は声をかける。 「ミステリィィィ、マァァスクゥー!!」 日本的英語表現に似た叫びが場内に響く。それを合図に花道の両サイドから勢いよく花火が飛び出した。 「パンパンパパパン!!」 突然の轟音に私は、身体をかがめて両手で耳を覆ってしまう。焦げ付いた火薬の匂いが私の鼻をつく。大観衆の声もさえぎり、静かな時間がどれぐらい経過したかわからない。足をつつかれている感覚で、ようやくわれに返った。目を開けると、覆面の担ぎ手の一人が手を耳から外せ、とジェスチャアしている。私が従うと、会場の失笑が耳に入った。 「ダメよ。あなたは強い格闘家なんだから、カッコ悪いとこを見せちゃ」 なんと若宮の声だった。覆面の担ぎ手のひとりになって、私に付いてきてくれているのだ。 「すみません」 ついいつものように頭をかきながら、一礼してしまう。そんな姿にまた場内は沸いた。 「とにかく、リングに向かいましょう」 神輿はずんずんと進み、リングにたどり着いた。ここで行われる最後の試合、いや今年最後の試合に出場するなんて、年頭には思いもしなかった。いや、一ヶ月前にも、正確に言えば、つい5分前まで、リングに上がるつもりはなかったのだ。 しかし、いま私は“ミステリーマスク”としてリングに立った。 ● 反対側のコーナーに小山がそびえたっていた。たけり狂う雄牛が二本足で立ち上がったような姿がそこにある。人が自分を待っていてくれることは無条件でうれしいものだ。しかし、この男にリングの上で待たれるのは、なんと憂鬱なことよ。 対戦相手の暴君竜である。まさに仁王立ちしている。ゴングが鳴れば、私は彼と一戦交えなければならない。絶望的な気分だった。万に一つも勝つ可能性などないのだ。いや、今後の私の課題は、いかに怪我を少なく、試合を終わらせるか。それ以外ないだろう。難儀な事態になってしまった。 「ただ今より、第七ビッグバンバトル、メインイベントを行います」 タキシードに正装したリングアナウンサーが声を張り上げる。この一戦を待ちかねていた観衆は期待の大声援で応える。しかし、不本意な当事者の私には早くもめまいが生じていた。上がった瞬間から精神的には倒れそうだったが、肉体的にも昏倒寸前の状態である。テレビ用の照明が煌々と照っているリングの上はうだりそうな暑さだ。マスクをしているせいもあって、とても息苦しい。 「この試合は5分3ラウンドで行われます」 目の前にいるリングアナの姿が蜃気楼のように見える。頭がぼーっとしてきた。 「赤コーナー、232.5キロ、ぼーくんりゅー!!」 コールされた暴君竜がリング中央にのしのしと歩み寄り、両手を突き上げて咆哮する。まさに荒野にそそり立つ百獣の王の貫禄十分だった。数々の強豪を震え上がらせてきた視線が、私に一直線に向かってくる。 「覚悟しておけよ」 そのひと言で私の全身はすくみ上がる。 「バラバラにしてやるからな!」 暴君竜は首を掻っ切るポーズをすると、自分のコーナーに下がった。いわゆる勝利宣言、というパフォーマンスだろう。 「青コーナー、62キロ、ミステリーーーマースクー!!」 私はかろうじて搾り出した勇気で、右手をのろのろと持ち上げる。自分をアピールしているというより、父兄参観日に周囲が挙手しているから、仕方なく手を挙げている生徒のようだ。 「がんばれよー、ミステリーマスク!」 「負けるな。勝てよー」 私自身がビックリするほどの大音量のエールが送られてきた。場内を埋め尽くしたファンが口々にミステリーマスクへのコールを叫んでいる。 「ミステリー、ミステリー、ミステリー」 一斉に唱和した。その大コールは、私の気持ちの中にある臆病さや不安、恐怖を軽減する効果があった。不思議な気分だ。この大声援の中で、情けない姿は見せられないと思えてしまう。 『あんなに強い元横綱の暴君竜と、たった一人で戦う。小さな、無名の格闘家ミステリーマスク。自分もその勇気が欲しいって、みんなが言ったのよ』 そう若宮は叫んだ。あのとき、私の心に闘志のともし火が宿ったのだ。その炎は消えていない。ミステリーマスクの勇気を信じる人たちの前で、みっともない真似はできないのだ。 (戦おう……) ただそう思えた。何もできるはずがない。私は格闘技などやったことがないからだ。それでも、ミステリーマスクとしてこのリングに立っている。その事実には、意味があると考えよう。 「石岡先生、ガウンを脱がないでください」 私の耳に若宮の声が届く。 「えっ、なんで……?」 選手コールを受けたのだから、ガウンを脱いで試合コスチュームだけになり、戦闘準備を整えるべきではないのか。 「ギリギリまで脱がないでください。ゴングが鳴る直前まで」 若宮の指示の意味が把握できない。しかし、私は従うことにした。なにしろ生まれて初めてリングに上がる素人なのだ。いや、素人以下の赤ん坊と言ってもいい。 そもそも、格闘家にとってのリングガウンとは試合前に温めた自分の身体を冷やさないようにする目的があるらしい。今更ながらだが、私はウォーミングアップもしていない。まあ私の場合、したからと言って別段、動きに違いが出るとも思えないが、気休めにはなっただろう。 そのとき、暴君竜のコーナーの下に控えているセコンドのレーナと目が合った。彼女はミステリーマスクの正体を大塚と知っていて、最初はこの戦いを止めようとした。しかし、格闘家同士にしかわからない感覚を尊重し、自分の兄と恋人が戦うことを見守ると決めたのだ。しかし、その状況は変わってしまった。レーナの目が丸くなる。ミステリーマスクの正体が、大塚ではなく、いまだに私であることを瞬時に悟ったのだ。彼女は静かに首を横に振る。たぶんリタイアしろ、との意味だろう。冷静に考えれば、それ以外の選択肢はない。元横綱の暴君竜、しかも体重差が160キロ以上。私は格闘技のカの字も知らないド素人だ。これから始まるのは試合ではない。スポーツですらないのかもしれない。それでも、リングに上がってしまった以上、ここから抜け出す方法なんてあるはずもないのだ。 「さあ、みんな。ミステリーマスクに気合を入れるわよ。リングに上がって円陣を組んで」 若宮が指示を出す。覆面をしたセコンドが次々とリングに入ってきた。私を取り囲む形で、チームスポーツのように円陣を組む。私は嬉しかった。若宮の最後の心遣いだろう。みんなに勇気をもらってリングに上がれた私は気持ちを保つしかない。そのために、覆面のセコンド陣によるできる限りのエールで奮い立たせてくれるようだ。 「さあ、石岡先生。ガウンを脱いでください」 「うん。ありがとう若宮さん。ぼくは何秒立ってられるかわからないけど……」 「いいんですよ。もうリングを降りても」 「えっ、いや、だけど……」 私は、この二日間で初めてミステリーマスクを辞めてもいいと言った若宮に戸惑う。暴君竜とリング上で対峙してみて、あらためて二人の比べようもない差に観念したのか。 「だって、ぼくが辞めたらミステリーマスクは……」 「僕がやりますよ」 その声に私は振り向いた。覆面をしたセコンドの1人が円陣の中に立っている。 顔を隠していても、私にはその若者が誰なのかわかった。この二日間、全ての時間、待ち焦がれていた男が目の前にいた。 次の瞬間、私は彼に抱きついた。一気にあふれ出る涙を止めることができない。私はとっくに自分の勇気を使い果たしていた。必死に不安や恐怖を抑えていたが、限界を超えていた。だが、その全ての思いが吹き飛んだ。 ついに私は報われたのだ。 「おかえり、大塚君……」 万感の思いを込めて、私はそう言った。 「ありがとう石岡先生。本当にありがとうございます」 私が脱いだガウンを手馴れた様子で大塚が羽織る。やっと、本物のミステリーマスクが復活した。私の代理は終了したのだ。 「さあて、まず最初にできる御礼は、目の前の暴君竜をぶっ倒すことですね」 大塚が左手のひらに右手の拳を打ち付ける。 「頼んだよ、ミステリーマスク!!」 涙でくしゃくしゃの私の顔は他の人に見られない。この二日間で初めて、マスクをしていてよかったと思えた。 |
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